植竹利侑牧師による入門講座⑤

第5講 イエス・キリストの本質

植竹利侑牧師による入門講座 »

■ 説教音声
■ 説教

本日はイエス・キリストの本質という題でお話をさせていただくつもりです。

入門講座の第一講で、聖書の神様についてお話をさせていただきました。神様のことは、例えば天地の造り主であるとか、永遠のお方であるとか、無限・絶対のお方であるとか、ということは比較的どなたにでも分かり易い事柄です。その話を聞くと、なるほどそうか、確かに本当の神様であったらそうであろうなあ、と言って理解をして下さる方が大勢いらっしゃいます。ところが、イエス・キリストというお方の話になると、これはなかなか分からないと言う方が多いのです。神様は分かるけれどもキリストのことは、どうもよく分からないとおっしゃる方が多い。イエスというのは、これは人間の名前です。人間としての固有名詞です。イエスというのは、あのナザレという村で育ち、ヨセフの子供と思われていた人間イエスの固有の名前です。ところがキリストというのは、神的な名前です。神としての名前なんです。すなわちイエス・キリストと言った場合、これは人でありつつ、かつ神であるお方ということ。しかもこれはどちらかと言うと、人間の固有名詞ではなくて、職分的な名前なんです。両者にはそういう違いがあります。ですから並べて書くと大変おこがましいのですが、私は植竹利侑という個人の名前を持っていますが、職分から言うと牧師という職分を持っています。つまり人間としての名前と公の名前の両方があります。だからイエス・キリストというお方は、イエスという名前のキリストであったということです。キリストは日本語に直すと救世主、救い主です。ヘブルの人々は普通メシアと呼んでいました。発音上メサイアとも言います。従ってこの名前の中にはイエス・キリストというお方の二面性、すなわち神性と人間性の両方があるということを知っていただければ幸いです。

私どもは今はイエスと言えばキリスト、キリストと言えばイエス、どちらも同じ様なものだと思っています。何故ならこのイエス・キリストが固有名詞になっているからです。ところが本当はどうかと言いますと、あのイエスはキリストであるかどうか、ということが実は大きな問題だったんですね。イエスが果たして本当のキリストかどうかということが、初代教会では非常に大きな問題だった訳です。ユダヤ人達の間では、イエスのことはよく知っている。何故なら実際にイエスを見ていましたから。ナザレの大工の倅であるイエスという人を私は見た、という人が大勢ユダヤ人の中にはいた訳です。だが、そのイエスとキリストが必ずしも結びつかない人もいた訳です。当然ですね。だから初代教会の人々のメッセージは使徒行伝の第二章や三章を読んでいただいたら分かりますが、あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は立てて主となし、キリストとなし賜うたのだ、というのがペテロの説教の内容です。あなた方が十字架につけたこのイエスを、神は死から甦らせて下さって、見事に復活し昇天して神のもとへ帰って行ったのだ。そしてあなた方が見たり聞いたりした様に、神様はイエス・キリストの十字架とその十字架のあざないの業をよしとなさって、そして甦らせて下さって、天に携え上げて帰されたあげく、その証拠として聖霊を今注いでくれたのだ。そう言ってペテロは説教しています。使徒行伝の第二章の有名な説教ですね。ですからユダヤ人にとってイエスがキリストであるとすれば、これは重大問題だった訳です。そういう風には信じたくないという人達がいた訳でございます。ユダヤ人のキリスト観・メシア観というのは、今日に至るもなお固有なものを持っていました。その理由は、ユダヤ人は軍事的・政治的にメシアを見ていたからです。どうしてそうなったかと言いますと、例えばマタイによる福音書の第十一章をご覧いただきますと、その辺の事情がよく書いてあります。十六頁の二節です。

† さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。」

バプテスマのヨハネは、このお方こそ本当のメシア・救い主だと言って、自分の生涯をかけてイエスを紹介したんです。それにもかかわらず、今読みましたマタイ福音書の第十一章の二節以下を見てみますと、どうもイエス様の様子が自分達の期待していたメシアとは違う、ということをヨハネは感じ始めたんです。どういう風に違うかと言いますと、ヨハネは来るべきお方が(これはメシアのことです)、今に来るぞ、今に来るぞと言って待って待って待っていた。その来るべきお方であるメシアが遂に来たと言ってヨハネはイエスを指さしイエスを紹介し、自分の弟子をみんなイエスにあげてしまって自分は静かに消えていってもいいと思う程、バプテスマのヨハネはイエス様のお出でになったことを非常に喜んだ。にもかかわらず現実にはどうかというと、イエス様のなさる事が少しパッとしない。一向に軍事行動を起こさない。一向にユダヤの国をローマから独立させる為の運動をしない。あの偉大な預言者ヨハネでさえも、メシアというのはメシア王国を造って世界を軍事的に征服してユダヤ人の支配する国家にするという、当時のユダヤ人達のメシアに対する一番大きな期待を抱いていたからです。何故なら、長年に渡ってユダヤの国は軍事的・政治的に他国の支配のもとにあったから、そういう風に歪んでしまったのですね。事実、聖書のメッセージ(預言)の中には、こういう軍事的・政治的な偉大なる栄光の主(メシア)が、せんせんばんばんの御使い達を従えて雲に乗って世界を支配する為にお出でなさる、という栄光の主の預言が沢山あるんです。ところが、よく聖書を読むと、聖書の中には受難の僕というメシアの預言もあるのです。預言には二つある訳です。つまり本当は、初臨(イエス様のクリスマスです。最初に人類に救い主が臨んだから初臨と言うんです。)と再臨(これはやがてもう一度キリストが来たり賜うというので再臨と言います。)の二つがあったのです。聖書をよく読んでみると分かるのですが、最初にイエス様がこの地上に来た時は受難の僕、十字架の救い主としてお出でになる。だけれども、決してそれだけではないのです。イエス・キリストは、何遍も何遍も私はもう一度帰って来る、再び来る、と言ってらっしゃいます。それで再臨なのです。セブンスデイ・アドベンチストという、アドベントというのはその再臨のことを言っているんですね。セブンスデイは七番目の日で安息日です。安息日再臨教団と言いますが、この人達は特にイエス・キリストの再臨の事を非常に強く強調する教団だから、そういう名前がついているんです。セブンスデイ・アドベンチスト教会です。確かに聖書の中にはクリスマスのメッセージと再臨のメッセージがあり、本当にイエス・キリストはもう一度この世界を裁く為に栄光の主として、それこそ雲に乗って、御使い達と一緒にこの世界にもう一度お出で下さるということが書いてあるんですね。旧約聖書の中にも既に書いてあるし、新約の中にも書いてある訳です。そこをユダヤの人々は現実が経済的・軍事的・政治的に貧しい為に、初臨のイエス・キリストにこれを期待した訳です。だからこれが成就しないのは当然な話ですね。何年か前にアラブと戦争してイスラエルの国が六日戦争という第三回目の中東戦争がありましたが、六日間でもって電撃的な勝利をしたことがあります。その時にイスラエルの人々は、あのダヤン将軍こそがメシアであるに違いないと言ったと新聞に出ていました。未だにユダヤ人達はメシアというと、軍事的な英雄を期待している訳です。大変話がややこしくなりましたが、イエス様はそういうヨハネの期待に対して、マタイによる福音書の第十一章四節で言われています。

† イエスは答えていわれた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである。」

私の福音は決してそんなに華々しい百姓一揆を起こしたり戦争を引き起こしたりして、この人類を、ユダヤ人を軍事的・政治的に救うのが目的ではない。私はこの世の王ではない、とイエスは言ってらっしゃる。むしろイエス様のお仕事は、受難の僕として、人類の罪を背負って十字架につけられて死ぬ、ということにあったのでございます。だから最初の信仰告白がマタイによる福音書にあります。第十六章の十三節、二六頁です。

† イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります。」そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。」シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう・・・」

これが人間がしたイエス様に対する最初の信仰告白です。それは一言で言えば、汝はキリスト、生ける神の子なり、という告白です。あの人間としか見えないイエスの中に神の子キリストを見るということが、これが信仰告白なんですね。だからイエスはそれを非常に喜ばれたのですが、二十一節を見ると、この時からイエス・キリストは自分が必ずエルサレムに行き長老、祭司長、律法学者達から多くの苦しみを受け殺され、そして三日目に甦るべきことを弟子達に示し始められたと書いてあります。この時からイエスはペテロや弟子たちに対して、私は必ず十字架につけられて死ぬんだよ、ということを言い始めたというんです。面白いですね。どういうことかと言いますと、ペテロはイエスのことを、あなたはキリストですという告白をしたのです。汝はキリスト、生ける子神の子なりという告白です。するとイエスは、そうか、それが分かるならば本当の事を言ってあげよう、実は私はやがて十字架につけられて死ぬんだよ、死んで三日目に甦るんだよ、ということをね、イエスが言い始めたと書いてあるんです。さあ、ペテロはびっくりして、度肝を抜かして、先生、冗談じゃあない、そんなことは夢にも思わないで下さい、縁起の悪い事を言いもしないで下さい、主よ、と言ってペテロはイエスを厳しく戒めたと書いてある。だからペテロでさえも、バプテスマのヨハネでさえも、弟子達でさえも、イエスと一緒に生活してみて、このお方は唯の人ではないことがようく分かったけれども、十字架とか死とかということは理解できなかったことが分かります。なかなかできなかったんです。イエスが十字架についてしまった時も、弟子たちは終始狼狽して、本当に今後どうしたら良いだろうかと言って悩んだということが、その辺の事情が福音書によく書いてありますね。その死んだイエスが復活ということを通して初めて弟子達は、ああ、あのお方イエスは、本当のキリストであったということが分かったんです。それまでは弟子達も分からなかった。弟子達さえもがイエス・キリストの本当の性質というものが分からなかった訳です。従ってせっかく、あなたはキリスト、生ける神の子です、という信仰告白をペテロがしたにもかかわらず、ペテロのイエスに対するキリスト観、イエス観というものは、相当初歩的な中途半端なものであったということが分かります。その時、イエスは初めて弟子達に受難の告知をされました。すると誰一人として、受難の告知に耐える者がいなかったんです。イエスの周りには、イエスを王様にしようとか、祭り上げて自分達の政治的・軍事的な欲望を満たそうとか、というような弟子達が一杯いた訳です。今日でいう国粋主義者であった熱心党のシモンとかユダという男もそうです。イエスを軍事的・政治的に担ぎ上げて、自分達の国をローマから独立させようと思ったのですね。だけれどもイエスはそう言う意志の無いことをはっきりと言われたので、ヨハネ福音書を見ると第六章位から民衆達はみんなイエスに失望して去ってしまったということが書いてあります。その時、イエスは弟子達にあなた方も私を去ろうとするのかと敢えて聞いたということが書いてあります。するとペテロは、いいえ、どうして我ら主よ誰か行かん、永久の命の言葉は汝にあり、と言ってイエス様の側から去らなかったということが記されています。そういう様にイエス様は弟子達にさえ本当には理解されませんでした。

ところで、預言というものは、大体はっきりと何年何月に起こると書いてあるものではないんです。預言者自身が神様から示されて、霊感(インスピレーション)に従って預言をしたとしても、その預言者自身は、これから何十年後の何月何日何時頃こんなことが起きますとは預言していないんです。だから我々には預言の意味する全貌が分かりにくい訳です。私達が自動車に乗って山に登っていく例でお話しましょう。最初、この麓の地点ではこの山しか見えないですね。この山の上に登って初めて次の山が見えてくる訳です。そう言う具合に、ここでは受難のキリスト(初臨)、ここでは栄光のキリスト(再臨)という様に預言は成就していくのですが、人間には最初からその全てが見通せる訳ではありません。そういう意味で、預言のことがよく分からなかったのです。そこでマタイ福音書をお読み下さった方はお分かりですが、イエス様が何かをした時には、必ず、旧約聖書にこうこう書かれた預言が成就する為であったと、きちんとマタイは一遍毎に注釈をしています。それはイエス・キリストというお方が如何に旧約聖書の預言の成就として生活されたか、業をされたかということを、マタイはユダヤ人達に分かり易くする為にいちいち注釈をつけたんです。イエス様に対する預言というのは旧約聖書の中に約三千箇所あると言われています。だからイエスが生活すること、言うこと成すこと、その全部が旧約聖書の中に既に預言されていた事がピシッピシッと成就していったということです。旧約聖書が歩き始めたら、それはイエスであったと言ってもいい位、旧約聖書は全部イエス・キリストのことを予告しているんです。これは後でいくらでも詳しくお話することができると思います。旧約聖書は預言であると共に一つの予表なんです。予め表す、ということです。例えば羊を殺して身代わりにするということは、本当の神の子羊であるイエス・キリストが来て、十字架について身代わりとなって死んで下さるということを予表しているんです。ノアが箱船を造ってその中に入った人は救われたというのは、信じて神の恵みの中に入った人々は、最後の審判(再臨の時にある本当の大審判)から逃れることができますよ、という一つの予表ですね。旧約の出来事は全部、イエス・キリストがなさる業や働きや性質に対する預言であり予表なんです。だからイエスのことを旧約聖書は三千位預言しているということは本当にそうだと思います。それどころか、旧約の全頁はイエス・キリストのことを指差しているのでございます。従って私達はこの預言を勉強しますと驚くべきことが分かります。例えばダニエル書を読んでみますと、イエス・キリストが生まれる年のことが預言されています。ただし、それは西暦何年とかという具体的なものではなく婉曲な表現をとっています。また、預言の中には豹が出てきたり、熊が出てきたり、鷲が出てきたり色々な動物が出てきます。そういうことは旧約聖書を読んでいると意味が分かる訳です。例えば豹というのはギリシャの国を指し、熊はソ連を指しています。ロシアは熊という動物で本当に予表されています。あるいはペルシャの国が熊で言われています。ライオンがバビロンの国を表しています。そう言う具合に聖書には独特な隠語的な約束事があります。何故そういう表現をとったかと言うと、当時は迫害時代ですから、聖書が書かれた時代には、はっきりと名指しで書くことができない場合があった。従って聖書のことが分かる人々には、ああ、あれはあのことだ、と分かるように書かれているんです。それで預言の中には普通では分かりにくいことがありますが、分かって読んだらよくその意味するところが理解できます。世界の終末のことからキリストの再臨のことまで、全部聖書は預言しているのでございます。

別の主題に入っていきます。先程申し上げましたように、イエス・キリストというお方は、全き神でありながら、全き人であったということ。その神性と人性という両面を、キリストは完全に持っておられたお方であるということ。イエス・キリストが神であるということについては、あれは歴史上の人間ではないかと言う人もいます。考古学的に言っても、イエスというお方がいたということを否定する学者はいないのです。イエスが幻の人間であったとか、単なる噂に過ぎないとか、誰かがでっち上げた伝説であるとかと言う人はいないんです。歴史上、実在したということは絶対動きません。釈迦という人がいたか。多分いたんでしょうね。孔子がいたということも、ソクラテースがいたということも歴史的な事実だと思います。その意味でイエスというお方が、あのパレスチナ地方のナザレという所で生まれ、エルサレムの郊外に引き出されて十字架につけられ死んだということは歴史的な事実です。ただし、そのイエスがキリストであるかどうかは、信じる信じないが出てきます。即ち救い主であるかどうかということは、信じられない人には信じられない。ただ、三聖人の一人であるとか、汝の敵を愛せよなんて偉いことを言った人間だとか、そういうことを知っている人はいます。しかし、イエスがキリストであるということが、そのまま信じられる人は少ない訳ですね。そういう人はクリスチャンになっていないだけの話です。

では、そのキリストというお方は、一体どういうお方だったのでしょうか。それをこれから見てみたいと思います。新約聖書のコロサイ人への手紙の第一章十五節。三一四頁です。

† 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生まれたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。

ここには凄いことが書いてあり、聖書の言語の意味などを含め全部を説明したら一晩かかります。それで簡単に申せば、御子は見えない神の形であって、全ての造られたものに先立って生まれた方である。万物が造られる前に、時間というものがまだ無い永遠の初めに、神が生み賜うた、そのひとり子である神だ、と言うのです。キリストのことを聖書はそう言っています。生み賜うたということは、全く同質であるということです。生んだ子供が鬼だったら鬼子になってしまいますね。サルはサルからしか生まれません。人間は人間しか生めません。それは性質は違うが、あるいは役割は異なるが、御子というお方の本質は全く神であるということを聖書は言っているんです。御子は神と全く同質であり、永遠の初めから神が愛しておられる愛の対象です。全く神と同質のお方であるということです。これが信じられないとキリスト教は成り立たない。先ず最初に、キリストは御子と呼ばれる。神は父と呼ばれる。キリストは子と呼ばれるお方。この父と子というのは、聖書が言っている神様とキリストの関係です。しかも、そのひとり子と書いてある。それ、神はその生み賜える独り子を賜った程にこの世を愛して下さった、というのが聖書のメッセージなのです。ですから被造物ではないということです。私達人間は神によって造られたものです。人間は被造物です。どんなに素晴らしい天の使いがいたとしても、天使も被造物です。キリストは神が生み賜うた自分と同質のお方。これが先ず一番大事なポイントです。もう一箇所読んでみたいと思います。ヨハネによる福音書の第一章。一三五頁の一節からです。

† 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

続いて九節。

† すべての人を照すまことの光があって、世にきた(植竹・神の子が人間の中に来たということ)。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民(植竹・ユダヤ人のこと)は彼を受けいれなかった。しかし ・・・

■録音空白部分■

・・・ 十六節。

† わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

どうぞご安心下さいませ。神様を見た者はまだ一人もいないんです(笑)。私も見たことはないのです。しかし、イエス・キリストを見れば神が分かる。私を見た者は父を見た者である、とイエス様は言ってらっしゃいます。父と我とは一つである。あなた方もこれからは今まで父と祈ったことがなかったが、これからは、天にまします私達のお父様と呼びなさい。我が父、即ち汝らの父である、とイエス様は言っておられます。だから私達は父の懐に永遠の初めからおられたイエス・キリストを通してだけ、本当に神を見ることができるんです。イエス様を通して表された神様だけが、本当の愛の神様だということが分かります。それまでは恵みと律法はモーセを通して表されたけれども、恵みと真は、イエス・キリストによって来たとヨハネは言っています。もう少し分かり易く言うならば、神様は天地を創造しこれを支配するところの驚くべき強い意志ですね。その意志は言葉がなければ誰も理解できません。私にどんなに意志があっても、それを言葉で伝えなければ、その意志は誰にも伝わっていきません。その神の愛の意志を私達に表してくれた言葉がキリストです。御子はそういうお方です。だから初めに言葉があった、とヨハネは言っています。この言葉のことをギリシャ語でロゴスと言います。これは単なるワードというか、こういうベラベラしゃべる言葉という意味ではないんです。もっと、うんとうんと深い深い意味を持った言葉なんですね。その言葉で表現されたことが伝達されるための方法、即ち声です。今私は字を書いています。字とか声とかで皆さんに伝達しています。聖霊というお方はどういうお方なのでしょうか。神様が子なる神を愛し、子なる神と同時に人間を愛していらっしゃる、その神の愛の表現は御子によって表されるんです。懐にいましたひとり子の神だけが表したと言っていますね。イエス・キリストの十字架によって表された神の愛が、それを成就したのはイエス様ですが、その十字架の愛とか、許しとか、救いとか、身代わりとか、贖いとかということを、今私達に伝達してくれるのが聖霊です。そう表現したら良いかと思います。これらが三位一体を構成します。私達は霊であり、魂、心であり、肉体であると言いましたが、みんな同じです。霊・魂・体です。これが人間の三位一体です。私達は霊が無ければ人間ではないです。体が無ければ幽霊です。そうではなくて、私達人間は霊・魂・体によって生きていると同じように、神様は父・子・聖霊なるお方です。聖書をよく読んでみますと、クリスチャン生活は矢張り三位一体で、信仰と希望と愛と言っていますね。信仰は父なる神様です。愛は御子イエス・キリストです。希望は聖霊です。あるいは反対に、御子はやがて来たり賜う希望の福音者と言って、聖霊が愛だと言っても間違いではないと思いますが。この三位一体というのはあらゆる世界に通用します。私達は三位で考えなければならないことが世の中には沢山あります。父なる神と子なる神と聖霊なる神というお方は、それぞれ働きが違うし、位格は違うが、人格は全く一つです。私は父が私にせよと言わなかったことは、一つもしたことがありません、父が語って下さること以外で私が語ったことは一つもありません、とイエス・キリストは何遍もそう言っています。私を見た者は父を見たのと全く同じです、父が私にせよと命じたことは全部しました、とイエスはそう何遍もヨハネ福音書の中で言っています。全く父と私とは一つです。そしてイエスは何と言ったか。父よ、どうか真理の御霊をあなた方に注いでくれますようにと言っています。聖霊がやがて来ることをイエスは予告していらっしゃるのです。御子が父を呼び、聖霊のことをちゃんと言ってらっしゃいます。父が聖霊をあなた方に送って下さると言っています。三位一体です。どう考えてみても、イエス様の発言を読んでみても、三位一体です。だから神様というお方は、旧約時代には分からなかったのです。旧約時代では、主よ主よと言って、神様を主と呼ぶだけしかできなかったのです。そういう神様でしかなかったのです。しかし、新約聖書ではイエス・キリストを通して、神様は父であり、子であり、聖霊として、私達の中に働いて下さるお方だということが分かってきた。新約聖書になって初めて分かってきました。ですから私達は、神様を、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神というお方だと信じています。

皆様がお持ちの聖歌本の表表紙の使徒信条をご覧下さい。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と言って、父なる神様のことを語っている。その次に使徒信条の中で一番大きなウェートを占めているのは、御子イエスのことですね。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」これは先程申した再臨のことを言っています。「我は聖霊を信ず。」聖霊のことは一言で書いています。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。」こういう風に表現されています。

では、イエス・キリストというお方はどういうことをされたのでしょうか。その完全に神であったキリストが何故人になったのか。何故その必要があるのか。ヨハネ福音書の第一章の十四節に、言葉は肉体となって私達の内に宿った、とありましたね。言葉が肉体に至って宿ることをインカネーションと言います。受肉と日本語では言います。受肉すると言います。何故、言葉が肉体になるのか。永遠の神の御子が人となるということは矛盾ではないか、そんなことができる筈がないではないかと言われるでしょう。そうです、本当はできる筈はないんです。しかし、人間の罪から人間を救うということを考えてみたら、直ぐ分かります。人間の罪を救う為には、全き人間でないとできないことなんです。羊を何千・何万頭と殺しても人間の罪は本当には許されなかった。ユダヤ人達が羊を殺したのは、それは単なる教訓、練習、訓練であり、イエス・キリストが来た時に、イエス・キリストの十字架を見た時に、ああ、正にあれはイエス様のことを教えてくれていたのだということが分かる為に羊を殺した訳です。羊そのものをいくら殺しても、それで罪が贖われはしないんです。許されはしなかったんです。だから本当に人間を救う為には、完全な人間でないと人間の身代わりにはなれないのです。ところが人間は全部罪人です。原罪というものを持っている。自分の罪の為に死ぬことができても、人の罪の身代わりにはなれないのが人間です。自分はしこたま罪を背負っているくせに、人の身代わりなんかになれはしません。有罪で死刑の判決を受けている人が人の為に死んだからといって、人の身代わりになるでしょうか。ならないです。自分の罪の為に死ぬだけです。しかも人間は全部罪人です。罪の無い者は一人もいない。義人はいない。正しい者はいない。尽く腐っている。罪を犯している、とパウロはローマ書の第三章で言っている。イエス様もそう言ってらっしゃる。人間で本当に正しい人は一人もいないのです。だとすればですね、人間の罪の身代わりの為にどうすれば良いですか。無原罪のものがなければならないことになります。しかも絶対罪を犯したことの無いお方がいなければならない。そういう人間が死んで下さる以外には、人間の罪の身代わりということは成り立たないのです。そういう人間は一体どこにいるのか。いる筈がないですね。ではどうすれば良いか。神はその愛の故に、その生み賜えるひとり子である御子を人間の為に人として下さった。それがクリスマスのメッセージなんです。言葉は肉体となって私達の内に宿ったということは、そういうことなんですね。今度は新約聖書のピリピ人への手紙の第二章六節、三〇九頁をご覧下さい。

† キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。これがイエス・キリストがなさったことなのです。それからもう一箇所見てみましょう。ヘブル人への手紙の第二章の十四節、三四四頁です。

† このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので(植竹・私達人間のこと)、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試練を受け苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。

これは聖書の中でも有名な言葉の一つです。次は第四章の十四節です。

† さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。

罪は犯されなかったが、全ての事について私達と同じように試練に会って下さった救い主。これもイエスのことです。イエスは神の御子でありながら、人間が血肉を持っているのと全く同じくそれを備えて、この地上にお出で下さった。この世に父なし子というのはあっても、母なし子はありません。イエス・キリストが血肉を備える為に、全き人間となってこの地上にお出でになる為に、神は非常な絶大なる力をもって、天地を創造される神の大権をもって、聖霊によって乙女マリアからお生まれになったということ。聖霊によって乙女マリアから生まれ、というのはそういうことなんです。神の大能の力によって、非常手段をもって、マリアの中から人として生まれたものだということなんです。マタイ福音書には、人にはヨセフの子と思われていたと書いてありますが、イエス・キリストは聖霊によってマリアを母として、完全な肉体をもって来られた。だからイエスというお方に限って言えば、彼は完全な人間としての制限を持っていらっしゃる。その限りにおいて、イエスは神ではありません。全き人間となった。私達と同じく試みに会って苦しまれた。第二章の前の方を見てみますと、イエスが肉体に会った時には、大いなる叫びと涙とをもって、主よ、己をお救い下さいと祈りと願いとを捧げられたと書いてある。父なる神様は御子イエスが苦しむことによって、贖いの業を完成されるように願われたと書いてあります。だからイエスは疲れれば眠くなり、お腹が空けば食べたくなり、恐らく私はイエス様だって絶対にある意味においては性の欲望もあったかも知れないし、人間的な弱さもみんなあったと思います。イエス様がスペシャルな人間であって、全然誘惑なんていうものを感じないという人間であったら、イエスは人間ではないです。それは幻か夢か、人間ではありません。だから聖書を見てみると、疲れて疲れて荒れ狂う暴風の中でも目を覚まさないでぐっすりと眠っておられたと書いてあります。人に裏切られた時には、本当に悲しまれたとも書いてあります。ゲッセマネの園では血の汗を流して苦しみを訴えて祈ってらっしゃいます。だからイエスは人と交わる為に、人の救いを完成させる為に、人間としての制限をちゃんと持っておられます。しかし、誘惑に会うということと、誘惑に負けるということとは全然別なんですよ。罪を犯すということと、誘惑に会うということとは全然別です。誘惑に会うこと自体が罪なら人間は絶対生きて行けません。イエス様でさえも誘惑には会っています。むしろ激しい誘惑に会っておられます。ところで、誘惑というものは外部から来るものです。どこに誘惑するか。私達の欲にです。私達の持っている本能的な欲望に誘惑が来る訳です。お腹が空いただろう、おいしそうなご馳走があるよと誘惑して来る訳です。しかし、それに対して負けるか負けないかということは、これは人によってみんな違います。だが清い人は、かなり訓練された人は、誘惑が来ても直ぐにパンと跳ね返します。本当に自堕落な人は長い長い間、誘惑とつき合っています。罪に負けるのです。しかし、イエスは罪は犯されなかったが、あらゆる点において私達と同じように誘惑に会われた。弱さの故に試みを受けられた。だが負けなかったと書いてある。そこが我々と違うところです。だから私はイエスは無原罪だと思いますね。イエスは、より純粋な形において激しく誘惑を受けていらっしゃいます。私達の誘惑は程度の低い誘惑ですね。つまらない事で悩んだり考えたりしています。

そういう具合に大変長いお話を致しましたが、イエス・キリストというお方は、その様に完全な神でありながら、同時に完全な人になられたお方であるということ。だから、マタイ福音書の第十六章の後を読んでいきますと、イエス様が、お前は私を誰と言うか、と言われたところが出てきますが、大変興味深い事が書いてあります。それはペテロが、とんでもない、先生そんな十字架なんてことは思わないで下さい、と言って戒めた時に、イエスはペテロに対して、サタンよ、我が後ろに退け、お前は神のことを思わず、かえって人のことを思うと言ってペテロを激しく叱られた。ペテロとイエス様はある意味においてそれから一週間緊張状態が続いた様です。ペテロは何か言うとイエス様に叱られそうな気がしてビクビクしていた。そこでイエスは弟子達を訓練する必要があるとお考えになって、ヘンボウ山と普通呼ばれているある山に連れて行かれた時、そこに旧約時代の聖徒であったエリヤとモーセが現れた。そうしてみるみるうちに三人の顔がまるで太陽の様に輝き、その衣は真っ白で稲妻のような輝きに変わったと書いてある。イエスはそうなってしまった。弟子達はびっくりした訳です。どうしてイエス様がその様に変わったかと言うと、これから十字架について死ぬというご自分のプログラムのことについて話をしていた時に、イエスの顔が輝いて稲妻の様な光を発する様になったと書いてある。面白いですね。人間はこれから貰うボーナスのことを考えて顔が輝いたなんてことはありますが(笑)。イエスは自分が、これからどのような十字架の苦しみを受けるかということを聖徒達と打ち合わせをした時、イエスの顔がみるみる輝いていたと書いてある。衣の裾から鎧が見えたという話が平家物語にありますが、神様の本質がその時図らずも輝きだしてしまったと言う人もあります。あるいはそうかも知れません。それは弟子達に十字架についた時に狼狽しないように、その時それを思い出すように、弟子達を訓練する為にイエスはそのようにされたのだとある学者は言っています。そうかも知れません。

ですから、その様にして私達はイエス・キリストが完全な神でありながら、完全な人になって下さった。無原罪でありながらも、完璧な人間として生まれる為に、その様に乙女マリヤから聖霊によって生まれて下さった、ということを知っていただきたいのでございます。

ところでキリスト教の歴史の中で異端と呼ばれる宗教がありますが、これは全部キリストが神の子であると信じられない人達です。例えばものみの塔では、イエス・キリストは天使の長だと考えています。被造物の中での最高のお方という捉え方です。神が生んだ神と同質の存在であるとは言わないんです。しかし、聖書を読んでみますと、人間を人間の罪から救う為に神様が払った犠牲、イエス・キリストの十字架、イエス・キリストの死というのは、同じ被造物の中の一番綺麗で立派で正しい者を同じ被造物の仲間の為に殺したというのと、ご自分が生み賜うた自分のひとり子を十字架につけて下さったというのとでは、神の愛の本質が全く変わってきてしまいます。自分の子供を自分が造った人形や道具の為に犠牲にするのと、自分が造った道具の為に造った中で一番良いものを犠牲にするのとでは、全然意味合いが異なってきます。ですから、聖書は少なくとも、神はその生み賜えるひとり子を私達の為に与えて下さったと言っているのです。そこがものみの塔や統一教会、モルモン教にしても全部違います。彼らは聖書が言っている通りには信じていないのでございます。だからイエス・キリストの生き様ということで言えば、イエスは唯の一秒間も自分の為に生きるということをしなかったのです。唯の一遍も愛ということから外れた動機で物事をなさっていない。本当に福音書を読むと、どうしてこんなに素晴らしい人間がいたのか私には分からない。しかも全く純粋に悲しんでいらっしゃるし、嘆いておられるし、純粋に怒っておられるところもあります。偽善に対するイエスの激しい怒りというものは凄いですね。そういう具合に本当に罪を悲しみ、本当に神を愛し、本当に純粋に生きられたお方です。神様の御心を伝えるということの為だけに生きられたお方です。

だけれどもイエス様の生涯で最も大事なことは、それだけではなくて、つまり、如何に生きたかということよりも、如何に死んだかということが大事なんです。そのイエスの死に様が十字架であり、救いの一番大事なポイントになります。そのことについては相当時間をかけてお話しなければならないので、イエス・キリストの本質ではなくて、イエス・キリストの業、十字架ということの意味は来週お話したいと思います。この十字架の意味は、キリスト教の中で中心的ともいうべきテーマとなります。しかしその話に入る前に、今日申し上げたことを知っておいていただかないと、十字架の意味をお話しても・・・

■録音終了■