植竹利侑牧師による入門講座⑦

第7講 復活と召天のキリスト

植竹利侑牧師による入門講座 »

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・・・ 新約聖書のローマ人への手紙の第五章十二節から二十節までお読み致します。二三九頁です。

† このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪を定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

この入門講座の第三講では、人間の罪ということでお話させていただきました。人間の罪は、ひとりの人アダムから入ったということを申し上げました。アダムは神様がしてはいけないと言われた事を遂にしてしまった。ひとりの不従順によって罪が全人類に入り込んだと言われている所以です。罪というものは一度アダムに入ってしまった時、全人類に入り込んでしまった。これを原罪と言いますが、この原罪というのは遺伝的な力を持っています。この遺伝というものは、両親から悪い病気の性質や色々な気質や体質などを受け継ぐよりも、もっと先祖から受け継いで来るものなのです。人間の性質は先祖から受け継いできます。だから仮に両親がもの凄く素晴らしい恵まれたきよめられた立派な聖人のような人であったとしても、その子供は必ずしも聖人にはならない。むしろ、絶対と言っていいほど聖人にはならない。両親が素晴らしい人であれば、子供は素晴らしい人になる可能性は持っています。教育などによってですね。しかし一番大事な性質いうものは、両親以前の祖母とか祖父とか曾おじいちゃん曾おばあちゃんという風に遡った祖先の性質を私達は今日に受け継いできている訳です。遺伝の法則はメンデルのものなど学ばれたことと思います。そこでは遺伝因子の発生率などがきちんと予測されています。

罪というものも全くそれと同じでして、ひとりのアダムに入った罪は全人類に遺伝していった、と聖書は言っているのです。だから罪のない人はひとりもいません。罪を持たない人は残念ながらひとりもいなんです。全部の人の中に罪の性質が入っている。環境が良かったり境遇が良かったりすると罪を犯さずに済みますが、もし私達が境遇や環境が悪ければ、どんな大きな罪を犯すか分かりません。今刑務所にいる人や殺人の罪を犯した人だけが、本当に罪人かと言ったらそうじゃあないですね。私達と一つも違わないです。私達人間もそういう境遇や状況、条件にいたら、大体において同じ様な罪を犯します。そういう境遇にあっても、罪を犯さない人もたまにはおられます。戦争中にやみ米を一切買わずに餓死したある検事さんの話があります。しかし、そういう人は滅多にいるものではなく、人間は皆罪を犯す性質を持っているのです。だからひとりのアダムによって罪は全人類に及んだと、今読んだところに書いてあります。また、罪の性質いうものはそればかりではありません。例えば渋柿を例に取りましょう。柿というものはどんなに美味しい柿でも、必ず次の代には渋柿になるそうです。しかしその木に接ぎ木することによって甘柿の芽を植えないと甘柿はとれないのです。つまり柿は一度切らなければならない。死を経験しなければならないと言える訳です。死んで再度生きた時に、本当に甘い柿になるんだと言われています。ですから、この渋柿の性質は先祖から受け継いでくるものです。人間もそうです。どんな立派なクリスチャンの家庭で育っても、どんなに立派なご両親から生まれ教育されても、子供は子供として一度は必ず自分が救われるとか、あるいは生まれ変わるとかという経験をしないと駄目なんです。ひとりひとりがそういう宗教的な経験をしなければなりません。

そして罪が全人類に及んだように、死もまた全人類に及んでしまった。人間にとって何が残酷と言っても、死ということほど残酷なことはありません。何が確実だと言って死ほど確実なことはありません。死が全ての人に及んだと聖書に記されている。私はいつか田舎で教会関係者の葬儀をしたことがあります。その時にとても印象的だったことは、街の人々が仕事を休んでまで挙って参列されたことでした。部落長らしき人に仕事を休んでまでとお礼を言うと、その人は、この世で死ほど厳粛なことはない、その時位は仕事を休んで参列するのが当然ですよ、と言われました。そうですね。人間の歴史は、生まれた・死んだの繰り返しで、これが全部です。そして全ての人は死ななければならないのに、その死の問題を解決しないままで生きている人が一杯います。死の問題を解決しないままで生きている生は、本当の生ではないです。死の問題を解決して初めて、本当のいのちが始まるんです。死の問題を解決しないで生きているいのちは、いつも死に脅かされているいのちです。それは本当の生き方ではないんですね。死の問題を乗り越えて、解決して、初めて強い本当の人生・いのちを生きることができると言えます。それは恰も、小学生が残り少ない夏休みを意識しながら、それでも宿題に手が着かず、何か落ち着かない気分で過ごすようなものではないでしょうか。ちゃんと解決しなければならない問題を解決しないで生きているいのちというものは、本当のいのちではないと言っていい位です。人間は絶対に死の問題から逃れることはできません。今まで死を逃れた人はひとりもいません。世の中には色々な不公平がありますが、死ぬということにおいては全く公平です。しかも、死亡時期は未定です。死は突如としてやってきます。

何故、人間は死ぬのか。それは聖書によると罪の結果です。創世記の第三章にはっきりと書いてありますね。あなたは罪を犯したので、あなたは土だから必ず土にかえる、と神はおっしゃっています。この木の実を食べた者は必ず死ぬと言ったんです。ところが、アダムは食べたけれども直ぐには死にませんでした。先ず最初に霊的な死が始まります。第二番目に肉体の死がやって来ます。第三番目に永遠の死が来ます。この様に死には三つあります。そしてこの種の死のことを聖書は第二の死と言っている。黙示録ではそう表現されています。それからもし私達が本当に救われているならば、霊のいのち、肉のいのち、永遠のいのち、があることが分かります。人間は死について本気で考える人は少ないのですが、死というのは罪の結果としての裁きです。人が一度死ぬことと死んで後裁きをうけることは全ての人に定まったことであって、誰もこれを逃れることはできないということが、ヘブル人への手紙の第九章に記されています。何故人間は死ぬのでしょうか。アダム以来の全ての人は死ぬようになりました。エペソ人への手紙の第二章には、あなた方はかつては死んだ者であって、と言っています。それは神様と断絶されて生きることは、既に霊的に死んでいることだと言っています。先ず霊的に死んだ後に、やがて肉体的に死ななければならない時がまいります。自分は自分で生まれてくることができないと同じように、自分で死を選ぶことも非常に難しい。自殺をしてもなかなか簡単には死ねないものです。人間の命は自分が持っているようで、実は自分のものではなくて、神が与えてくれたもの。だから人間は生きるのも死ぬのも、本当はそんなに簡単にはできません。私達は誰ひとり、自分の意志で生まれてきた者はいません。人間は生まれさせられて生まれてきたのです。ですから、生みだして下さったお方があるのです。そして、自分の意志で死ぬことができると思ったら大間違いです。死にたくなくても死の時は来るし、死にたくても死ねないものです。それは生も死も支配しておられる神が、死ぬことをおゆるしにならない時があるからです。そしてまた、神様が召される時はどんな人もこれを拒むことはできません。旧約聖書の詩人は、死が一番恐ろしい、何故なら、死んでしまえば神様を想い出すこともできないし、悔い改める機会もなくなってしまうからだとうたっています。生きてさえいれば、あるいは悔い改めて救われるチャンスがあるかも知れないが、死にあってはあなたを想い出すことができません、死にあってはあなたを讃美することができません、そう言って詩人はうたっています。まだ生きている間は、いつか救われる可能性が残されていますから本当に素晴らしいことなんです。

ひとりの人アダムによって罪が全人類に入った。その死が全ての人に及んだように、今度はひとりの人によって、いのちが全人類に入ることができるんですよ、と言ってるんです。それは図に書きますとこうなります。ひとりのアダムが罪を犯したため、その子孫は大勢増えましたがみんな死ななければならなくなりました。昔の人は九百何十才まで生きたけれども、矢っ張り死んだと書いてある。ある時、ノアの洪水というものがありまして、殆ど全部の人が洪水で滅んだんです。これは創世記の第九章あたりに書いてあります。そしてノアとその家族だけが八人救われました。そこから白色・黄色・黒色人種などと人種が増えていったと聖書に書いてあります。そして全ての人はみなアダムの子孫ですから、この死の中に生きています。死ななければならないいのちの中に生きています。その後人類は増え続け、今年は四十億人いると言われています。ある時、第二のアダム(キリスト)が始まった。そしてそこからまた、こういう具合に円錐形に救いが広がっていった。ここは罪と死の領域です。ここはいのちと救いの領域です。今の時代はどういう時代かと言うと、クリスチャンも大勢救われています。円で言えばこういうような円錐形だと思っていただけるといいですね。だから円錐形の中にもう一つの円錐形があるといったイメージです。これが第一のアダム、これが第二のアダム(キリスト)です。そして今どんどん、真ん中は小さな円錐形でその周りに大きな円がこうあって、今日はこういう時代です。下の小さな円錐形の中に飛び込んだ者は、丁度ノアの箱船があってこれに飛び込んできた者は救われたように、ここは残念ながら、今日に至ってなお罪と死の領域なんです。その中に数は少ないけれどもいのちと救いの領域があるんです。ここへ飛び込んだ人達は確かに救われることができると聖書は言っている。ですから大きな罪と死の円錐形の中に、キリストから始まった救いといのちの領域がそこに確立されていたということになります。死ぬということは人間にとって不可避なことですが、もし死ななかったらご老人ばかりが増えて大変なことになります。だからこの肉体が死ぬということは、これはある意味において仕方のないこと、当然なことです。

ところで先週、イエス・キリストの死ということについてお話しました。イエス・キリストの死とは何かと言うと、イエス・キリストというお方は神の御子であって、死ぬ必要のないお方が、私達のために死んで下さったお方ということ。また、神でありながら人となって下さった、ということを先々週お話致しました。キリストの死というのは私達の身代わりとしての死です。死ぬためにキリストは肉体となってこの地上に来て下さった。そしてイエス・キリストは、本当に私たちの罪のために呪われる者となって、神の怒りを背負って、罪そのものとなり呪いそのものとなって、私達の身代わりとなって死んで下さった。イエス・キリストは、全く死ぬ必要のないお方であったのに死んで下さったのです。十字架にあった時、イエスは、我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか、と言って叫ばれましたが、やがて、キリストはどう言ったかというと、その苦しみが終わって、全ては完了しました! と叫ばれたのです。イエスは完了した、という叫びを高らかにあげて、父なる神様に、父よ我が霊を汝の御手にゆだねんと言って、その霊を父なる神に渡されたとルカ福音書の第二十三章に書いてある。イエス・キリストは人間が犯した罪のために死んだだけではなく、実は死のために死んだのです。キリストの死というのは、唯単に罪のために死んだだけではなく、人間の死のために死んで下さった。

もう一度ローマ人への手紙の第五章十八節から二十節を読んでみましょう。二三九頁です。

† このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人(植竹・アダムのこと)の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

ひとりの人によって罪が全人類に入り込んできたように、今度は、全人類の罪を、ここでイエス・キリストはそれを漏斗のようにして全部飲み干してしまった。飲み干してしまったのに、つまりそこから新しいいのちが始まったのに、この中に飛び込まないでいると、今もなおここは罪と死の領域なんです。残念ながらイエス・キリストの成し遂げて下さったことを通過しない限り、我々は今もなお、この罪の円錐形の中に生きていることになります。そういう風に私達は位置していると思います。

更に今度はコリント人への第一の手紙の第十五章十六節から十九節です。二七四頁です。

† もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。

永遠のいのちだの、よみがえりだの、復活だの、救いだの、ありもしないことをあるあると信じているだけだったら、世の中で一番惨めなのはお前達だ、私達だと言っています。

そればかりか、次は十四節から十五節にかえって下さい。

† もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。

もしキリストのよみがえりがないんだったら、伝道者ほど、牧師ほど、大うそつきはいないし、それを信じる皆様方達ほど哀れな人はいない、とパウロは言っている訳です。

しかし、二十節から二一節です。

† しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人(植竹・アダムのこと)によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。

オリンピックで日本の選手が勝った時、私は何と言えばよいのでしょう。日本が勝った、でしょうか。でも、勝ったのはひとりじゃあないですか。ひとりで結構なんです。また、ひとりの宇宙飛行士が月へ行ったら、それは人類が月へ行ったことになるんです。ひとりのアダムが罪を犯した時、全人類に罪と死が入った本当に悲しい出来事があったのですが、ひとりのイエス・キリストが完璧な服従と苦しみをなめて私達の罪のために死んで下さった時、ひとりのキリストが完全に死に打ち勝って下さった時、人間は死に打ち勝つことができたんです。

そして、二二節から二六節をご覧下さい。

† アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。

本当にね、イエス・キリストは死にました。使徒信条にあるように、キリストは「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と使徒信条で告白されています。キリストは死んだんです。そして十字架から降ろされて墓に葬られたのです。そして聖書によると三日目だと書いています。ユダヤの人々は一日、二日という日にちの計算を夕方から始めますから、イエス・キリストが十字架にかかって死んだのは金曜日の夕方です。午後三時ですから、直ぐに土曜日が始まります。土曜日が二十四時間あって、日曜日が始まる。日曜日の朝早くキリストはよみがえったと記されています。ユダヤ人はその日を入れて時間を計算する習慣がありますから、三日目の朝早くキリストはよみがえったと記されているのです。ユダヤ人達はみな夕方から計算しますから、創世記の第一章の天地創造のところも、「夕となり、また朝となった。第一日である。」と書いてあります。それは夕方から始まるからそう言ってるんです。 ・・・

■録音空白部分■

s・・・ 七日目に神様が休んだのは、創造の働きを休んだだけです。造るという仕事を休んだだけであって、神様が愛を持って世界を支配することや守ることなど保持の働きを止めた訳ではありません。だからイエス様は、安息日だからといって天のお父様は休んじゃあいないと言ってらっしゃるんですね。父は夢に至るまで働きたまう、だから私も働く、あなた方は知らないのか、神が休まれたのは創造の働きだけである、と言っておられます。そしてイエス・キリストは日曜日の朝早く復活なさいましたので、クリスチャン達は日曜日の朝に礼拝を守ることにしたんです。日曜日の朝というのはイエス・キリストがよみがえった時なんですね。だから毎週毎週、クリスチャン達が日曜日の朝教会に集まり礼拝を守るということは、復活のイエスにお目にかかりに行くということなんです。復活の主イエス・キリストを礼拝するという意味があるんです。だからクリスチャン達は、一週間の一番最初の一番良い時間を仕事もせずに聖別して、先ず神を礼拝し、聖霊と恵みと愛に満たされて次からの六日間を働くことになります。だからカレンダーの一週間が日曜日から始まっているのは、これら聖書の考え方に由来しています。だから日曜日のことをサンデイと言い、休みをホリデイと言いますが、ホリデイとは言うまでもなくホーリー・デイ(聖なる日)の意味ですね。毎週日曜日の朝、何もしない一番最初の朝に礼拝を守るということは、本来一週間を全部神様に捧げたいのですが、仕事などもあるので、最初の時間だけは神様にお捧げします、という心意気を表しています。また、イエス・キリストは復活して、日曜日の朝毎に弟子達の前に現れたので、弟子達は日曜日の朝を礼拝に用いるようになったのです。

また、イエス・キリストがよみがえりの前に三日間墓の中にいたということは、それは仮死状態ではないということです。それは完全に死んで葬られたということを確認するために三日の時間が必要だったのです。そしてイエスは三日間墓の中におり、その霊は陰府(よみ)に下ったと書いてあります。陰府というのは地獄の待合室です。ところがペテロの第二の手紙を読んでみますと、イエスが陰府に下ったのは、別にそこへ入って刑罰を受けるためではなく、私(イエス)が救いの業を成し遂げたことを陰府にいる人々に伝導するため、宣言するために行ったんだと書いてあります。ですからイエス・キリストは陰府におちましたが、イエス様が神の怒りと裁きを受けたのは、あの十字架上の三時間であって、その時イエスは完全に罪に打ち勝っておられた。だから、イエス様は墓の中におられたが、長くはそこにいなかった。いる必要はなかったのです。

神様はイエスの十字架とその苦しみの全てを、完全に人間の罪に対する神の怒りを全部飲み干されたイエスの従順とその業を心から喜ばれて、イエスよ、あなたの仕事は終わった、あなたの成すべきことは済んだ、さあ、もうよみがえって帰ってくるように、と言って神はイエスを死のどん底からよみがえらせた。だから十字架というのは、人間的な面から言っても、あらゆる点から言っても、十字架だけをみたら敗北の姿です。決して勝利の姿ではない。人間の罪のためにイエス・キリストが十字架につけられてしまったという敗北です。もし復活がないならば、キリスト教というものは成り立たないんです。復活が勝利なのです。キリストがよみがえったということは、死を乗り越えたということです。死を打ち負かしたということです。だから最後の敵として滅ぼされるのが死である。

次にコリント人への第一の手紙の第十五章の四二節から四六節、二七五頁から二七六頁をご覧下さい。

† 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムはいのちを与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。

アダムは人間の肉の命を獲得しました。しかし、イエス・キリストは永遠の命を獲得して下さった。アダムは霊的な部分も持っていますが、彼は肉体としての命を人類にもたらしてくれました。しかし、イエス・キリストは永遠の命をもたらして下さったお方です。今お読みした、最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである、と書かれていた通りです。

続いて四七節から四九節です。

† 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。

私達人間は肉体でみれば動物と同じ土に属したものです。しかし霊でみれば、天使や神と同じ霊に属するものであり、永遠の命に属するものです。本来そのように造られましたが、罪を犯したために人間は死ななければならないものとなった。それを回復して下さったのがイエス・キリストです。死ぬ必要のないお方が死ぬことによって、私達を死から解き放つことができた。そのよみがえりの初穂となって下さった。私は百姓をした経験があります。最初に一つ穂が出ると、何日かすると一斉に穂が出始めます。キリストはよみがえりの初穂となった。次にイエス・キリストが来たりたまう時(再臨)に、一斉に救われていく魂が復活します。そして最後に終末が来る。その時には、大凡人間であるものは全部、死んだものは全部よみがえります。しかし残念ながら救われなかった人々の霊は、先程申し上げた第二の死と呼ばれている永遠の死を生きるためによみがえります。本当に救われている人々は永遠の命へとよみがえることが記されています。

五十節から五八節です。

† 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

死よ、お前の棘は一体どこにあるのか。死は死ぬ必要のない、罪のない神の御子を殺してしまった時、死はイエス・キリストの死を通して、死と差し違えて下さったイエス様の死によって、死は滅ぼされてしまった。蜂は人を刺すと自分は死んでしまいます。死の棘は神の御子を刺し殺したことによって、その御子が神の大能の力によってよみがえってしまったことにより、死は最早その力を失ってしまったんです。だから死は人間の肉体を殺すことはできますが、人間の霊を殺すことはできなくなってしまった。魂を滅ぼすことはできなくなってしまった。肉体の方は死を免れることはできません。形あるものは必ず滅すです。生命の必然です。しかし魂まで死ぬことはできません。イエスは山上の垂訓でおっしゃいました。あなた方の肉体を殺しても、魂を殺すことができないようなものを恐れるな、どんな権力も地位も名誉も、どんな迫害や殉教も、肉体を殺せても魂を殺すことはできないだろう、だから、本当に恐れるのなら、体ばかりでなく魂も滅ぼすことができる神様を恐れなさい、と。本当にそうなのです。私達人間は体は死ぬけれども、本当にイエス・キリストの救いがあるならば、魂は永遠に死なない世界、永遠の命の世界に移ります。死ぬということを聖書はいつまでも眠り続けるのではないと言っています。死を眠りと捉えています。どうですか、疲れて眠いというのは辛いことですよね。でも疲れた時に眠いのは祝福の筈なのです。本当に人が救われているのなら、死は眠りです。これほど素晴らしいことはない。それは安息です。平安です。安らかな眠りです。私達クリスチャンは死ぬことを召天と言います。本当に死ぬということほど平安はないのです。本来、人間はそうだったんです。何故死ぬのが恐ろしいかというと、罪があるからです。絶対そうです。罪の記憶があるからです。その罪の記憶は必ず裁きを予感するからです。だから死ぬのは怖いのです。絶対そうです。私達救われたクリスチャン、許されているクリスチャンにとっては、イエス・キリストが私達のために死んで下さったということが本当に信じられているならば、キリストというのは強力な弁護士です。私の罪と死に打ち勝って既に復活して下さったキリストは、神の右におられて私達のために取りなして下さるお方。こういう強力な弁護士を持っていたら、私達は神様の前に立った時、本当に安心です。キリストは次のように神様に取りなしてくれる筈です。彼は確かに罪を犯しました、しかし、天の父なる神様、私は彼のために死んだのです、彼は私の救いと弁護を受け入れています、彼は明らかに有罪ですが、無罪と同じに扱って下さい、と。

ローマ人への手紙の第八章にそのことが書いてあります。第七章の十八節から読んでみます。二四二頁です。

† わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

これはパウロの告白です。お前は、一体やる気があるのかないのか? とよく言います。やる気があればできるだろうが! と言いますね。いいえ、やる気があっても人間にはできないのです。もっとも、ここでのやる気とは本当の善を行うことなどを指しますが。本当の善はやる気があってもできない。やろうとする意志は自分にあるが、それをする力がないとパウロは言っています。その前の方を読んでみますと、分かっているのか? 分かっています、分かったらやれ! 分かっちゃあいるけど止められないからできませんと言っています。やる意志があるのかないのか? あるんです、あったらやればいいじゃあないか! いや、やる意志は十分あるが、私の中には善というものが宿っていないことを知っている、と言っています。

十九節から二一節です。

† すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

法則(プリンシプル)、すなわち人間には罪を犯すという法則がある、とパウロは言っているのです。

二二節です。

† すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが(植竹・心の中ではきよくなりたい、立派になりたい、良きことをしたい、と願っているが)、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

人間は罪の奴隷だと言うのです。罪の法則にがんじがらめになっていると言うのです。だから、二四節です。

† わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

人間は罪の体、死の体。罪と死という法則が私をがんじがらめにしているのを発見した。これは本気で正しくきよく生きようと思った人がおちこむジレンマなんです。まだやったことのない人は、俺だってやれるさと思っていますが、本当にきよい生活を自分でやってみようと思ったら、必ずこういうところに落ち込むものなんです。

そこで、更に第八章一節をご覧下さい。

† こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。

有罪の判決を受けることが絶対ないと言っているのです。二節。

† なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

私を解き放ったからである。解放してくれたからだ。三節から。

† 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。

肉というのは私達のこと。私達の肉の性質が無力なため、律法とは神の御心です。これを行うことができないでいた。それを神がなしとげてくれた。人間がしたのではないのです。その具体的な内容については、この三節の続きです。

† すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。

神は御子を罪の肉の状態で罪のために遣わして、あのイエス・キリストの肉において罪そのものを罰して下さった、と書いてあります。

四節。

† これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

非常に難しい言葉が書いてありますが、言おうとしていることは簡単です。すなわち、人間は絶対に自分の力で本当に罪に勝つことはできない。人間は絶対に自分の力で死に打ち勝つことはできない。神は御子を十字架につけ、滅ぼし、罪とし、そしてよみがえらせることによって、さらに聖霊というお方を私達に与えて下さることによって、命と御霊の法則によって、罪と死の法則から私達を解放したのだ! だから、もう人間は、本当にイエス・キリストにある者は、最早罪に定められることはなくなったのだ! と言っているのです。これが聖書のメッセージです。

もっと読んでみましょう。第八章の三一節から三九節、二四四頁です。

† それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである(植竹・これはイエス様のこと)。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

パウロの高らかな宣言です。本当にキリストを信じる者は罪から解き放たれる、罪することができないのです。パウロは、だれが、だれが、だれがと何度も言ってますが、全宇宙のあらゆるものに向かってパウロは宣言しているのです。パウロは、誰も私達を罪に定めることはできない、有罪とすることはできない、私達を死の中に閉じこめることはできない、と宣言しているのです。イエス・キリストがよみがえった時のことは使徒行伝の第二章にペテロが説教しています。キリストは死の中に留まっていることはできない。神は彼を、肉体を、陰府に捨て置くことをなさらなかった。そうペテロが言っています。キリストが先ず最初に、死ぬ必要のない聖なる神の子が、私達の罪の身代わりとして死んで下さったことによって、死そのものを滅ぼして下さった。そして、よみがえって下さった。それは死に対する勝利です。信じる全ての人はキリストの命と勝利とに預かることができる。だから私達は死ぬということは、むしろ永遠の命への出発です。門出です。そして私達クリスチャンにとっては、罪が許されているという確信は、同時に永遠の命への確信です。私は本当に救われたクリスチャンの死を何遍も見てきました。目の前で死んでいく状況に何度も立ち会いましたが、本当に素晴らしい死に方を皆さんはされていました。本当に素晴らしい、驚くほど素晴らしい死に方、勝利の凱旋をしていきました。例えば二年前に亡くなられた三二才のKさんは、実に素晴らしい死に方だったですね。癌に冒されておられましたが、死のほんの直前に呼ばれて枕元に行きました。そうしたら、先生、本当にありがとうございました、お世話になりました、短い結婚生活ではありましたが、私達夫婦の愛については絶対の確信を持つことができます、とKさんは言われました。これから行く天国は、私の一番の素晴らしいことです、とも言われました。本当に死の直前の告白でした。そして家族の皆さん達に別れを告げて逝かれました。それまではずっと昏睡状態が続いていた人でした。私は蚕を飼ったことがありますが、蚕が死ぬ前に透明になっていくようにですね、魂が昏睡状態の肉体からパッと眼が覚めて、このように本当に素晴らしい告白をされました。だからクリスチャンでないご家族の方もみんな驚いて、本当に神様の御名をあがめておられました。

私達は罪がゆるされているという確信があったら、死は最早恐れるに足らない。それでも、動物的・肉体的に死ぬということは必ずしも嬉しいことではないかも知れませんが、死が来ても慌てないで済むだろうと思います。神様は創世記の第三章のところで、善悪を知る木の実を食べてしまった人間が、更に命の木の実を食べて永遠に死なない者になることを恐れて、命の木の実を食べないようにエデンの園から追放したということが書いてありますね。それは何かと言うと、命の木の実とはイエス・キリストの救いを表徴しているのです。

私達がイエス・キリストを信じるということは、ただ単に、少し真面目な人間になるとかということではない。本当に罪がゆるされて神の子とされて、永久(とこしえ)の命の確信を持つということが信仰の内容です。来週は、どうすれば私達は救われるのかということについて、信じることとか、救いをどう信じるのかといったことをお話したいと思っています。これも非常に大事なことだと思いますので、是非ともお聴きいただきたいと存じます。

イエスは復活されて霊の命、霊の体に変わられた。私の手元にある本で『かいまみた死後の世界』というものがあります。アメリカ人の医師でレイモンド・A・ムーディーという人が、一度死んで、また復活してきた人の実例を何百例と挙げて書いた本です。当教会でも、Aさんのお嬢さんで十三才になられる子供さんが白血病で二年前に亡くなられましたが、その子供さんが亡くなられる前にも、この本に書いてあることと同じ様なことが起きたそうです。臨終の宣告から何十分か経った時に意識が戻り、質問してみるとこの本に書かれていることと同様の答がかえってきたそうです。そういう人達に共通しているのは、自分自身の屍を見たことや、明らかにイエス様に会ったとか、何とも言えない温かく輝かしい愛の光りに包まれたことなどを報告していることです。私自身はそこまでの経験もなくはっきりとは言えませんが、人間は確かにそういう霊的な存在であるということは信じられます。体だけではない、人間には魂がある ・・・

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