植竹利侑牧師による入門講座⑫

第12講 世の終わりはあるのか

植竹利侑牧師による入門講座 »

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今回は十二回にわたり計画しておりました入門講座の最終回と致しまして、終末論、この世の終わりはあるのか、と題してご一緒に学びたいと思っております。

おおよそ思想と言いましょうか、あるいは哲学とでも言いましょうか、あるいは主義・主張とでも言いましょうか、そういうものには必ず「史観」というものがなければなりません。そういう、ものの見方、歴史の見方が必ず必要です。例えば共産主義がどうしてあれほど若い人達の心を捉え、命懸けででもその主義の実現のために闘うのでしょうか。成田の空港を見てもそうですが、本当に命懸けでその若い命を懸けています。何故かと言いますと、そこには共産主義の唯物主義的な、共産主義的な史観というものがあるからです。史観というのは要するにプログラムです。ただ福田内閣のやり方が気にくわないとか、あるいはただ保守党がけしからんとか、そういうようなことを言っているだけでは、あんなエネルギーが出る訳は絶対ないのです。若い人が自分の命を懸けても悔いがないのはどうしてかと言いますと、プロレタリア共産主義の人達によるとですね、必ず革命が実現して、遂に世界は自分達の考えている哲学や思想や主義や主張の通りの時代が必ず来る、最後は必ずそういう時代が来るんだという、そういう一つの信念、そういう歴史そのものに対する見方というものがなければですね、人をそれ程捉えることはできないんです。ただ気にいらんとか気に入ったとか、好きとか嫌いとかけしからんとかという義憤では、そういう情熱は湧いてまいりません。一つの主義・主張というものが本当に力があるためには、その主義・主張にその主義・主張、その人達の考えによるところのプログラムというものが必ずある筈です。ですから今は保守党の世界だけれども、今に我々の時代が来るとか、今に我々はという、そういう期待があり、主義があり、信念があって、初めてあれだけの情熱というものが湧いて来るんです。従って、共産主義者には共産主義思想というものがあり、その思想の根底を支えるところの共産主義的な史観が必ずある筈です。そういう世界の歴史に対するプログラムというものがなければ、思想には力がありません。

その意味におきまして、あらゆる歴史観の中で最も顕著であり、最も徹底的なプログラムはどこにあるかと言うと、それは聖書の中にあるんです。聖書は天地創造から始まって、私は初めであり、私は終わりである、とおっしゃる。最後である、終末である。私は初めであると同時に終わりである。私はアルファであると共にオメガである。私は必ず初めであり終わりであると神は言ってらっしゃる。造った私は、最後まで必ず結末をつけるとおっしゃるのです。永遠の初めからのことが聖書に書いてあるのと同じように、永遠の終わりのことが聖書の中にははっきりと書かれています。聖書という本は正にですね、どんな哲学や思想よりも明白で、しかも確実で強い史観を持っているのです。初めに神が天地を創造されたという創世記の第一章をご覧なった方は、それだけ読むのではなく黙示録の一番最後を見ていただかなくてはなりません。黙示録の一番最後は新天新地と言いまして、今ある天も地も過ぎ去って、神の御国が本当に実現する時のことが記されているのです。これが黙示録の第二十二章です。ここは天国のメッセージです。そして一番最後に、「アーメン、主イエスよ、来たりませ。」とあり、最後に祝祷でこの黙示録は終わっている。この黙示録の第二十一章と二十二章は、永遠の御国である天国のことが書かれています。ですから、初めであり終わりであると何遍もイエスは言ってらっしゃいますが、聖書は言っていますが、アルファでありオメガであるとおっしゃる神様の御計画というもの、これが聖書なのでございます。

聖書は先ず初めに神が天地を創造された、その天地創造の目的は一体何であるかと言いますと、神がご自分の愛を実現するということです。神は何を目的でこの世界を造ったのか、宇宙を創造されたのか、世界を造ったのか。それはご自分の御心である愛を実現するためです。目的なしに天地を造るなんてことはおかしな話です。何も目的なしに、まるで幼稚園の子供が悪戯で、慰みで、何か粘土細工をしてたまたま何かを作ったというものではなくて、神様にははっきりとご自分の愛を永遠に実現していこうという目的があって、この天地を創造された筈でございます。そしてその神の愛の受取手(相手)として、神は人間を創造されたのです。人間は神の愛を本当に受け取ることができ、理解することができ、また神の愛を実現することのできる者として、神は人間を造っていらっしゃる筈です。以前申し上げたように、人間は神様と同じような人格を持ち、人間性を持ち、神様と語ることができ、神の愛を受け取り、これを証し、神の愛を実現していくことができる、最終の目的として神は人間を創造された筈です。ところがその人間は実に残念なことに、人間は罪に堕ちてしまった。そして神様の大目的を台無しにしてしまったのです。従って聖書の歴史というのは、罪に堕ちてしまった人間を罪から回復することによって、そして神の御心を更に実現しようとしていらっしゃるのが聖書の歴史です。本当に聖書の歴史というものは、人間の罪を回復しようとする神の愛の歴史です。聖書はそういう風な歴史として書かれているのでございます。

人間が罪を犯した結果、悲しいことにこの地が呪われ、自然も破壊されてしまった。神はその愛の故に、先ず人間を罪から救い、そしてこの自然をも回復しようとしていらっしゃるのです。そいうことにつきましては、以前お話させていただきましたので省略致しますが、そのためには、そのひとり子であるイエス・キリストをさえ惜しみ給わずして、十字架につけて下さらなければ、人間の罪を回復することができなかったというのが聖書のメッセージです。そのようにして神は人間の罪のために、御子をさえお与えになって十字架の救いを完成させておられるけれども、ヘブル人への手紙を読んでみますと、まだ神のその救いの回復の業は完成していない、というのが聖書のメッセージなのです。今は未だ未完成なのです。現代は未だ未完成です。何故ならば、未だ今は全世界が神の栄光のもとに回復していないのです。ローマ書の第八章によるならば、神の子達が完全に贖われるまでは、造られた全被造物である宇宙は、今もなお虚無の中に呻吟しており、一日も早くこの世界が、先ず神の子達が全く贖われることによってこの世界が完全に贖われて、神が初め創造された天地と同じように光り輝く、本当に素晴らしい天地が来るようにと記されています。だからそれが一度人間の罪によって汚されてしまった天地は、今度は聖書によりますと、新天新地、全く新しい天と新しい地とが、もう一度来るのを見たとヨハネは黙示録の中で言っています。これは天の御国です。そういう世界が実現するまでは、未だ未完成の状態にある訳です。回復の作業が未完成である状態でございます。

そのことを図に書いて申し上げてみたいと思います。一番最初に先ず聖書には永遠のことが書いてあります。そして天地創造が始まります。これに何億年か何十億年か要した時間は私には分かりませんが、天地が創造されます。そして最初の人間アダムが出現します。アダムの出現というのは、聖書の年代を繰っていくと大体今から六千年前に相当致します。人間の歴史というものはですね、普通五十万年と言われますね。ネアンデルタールとかホモサピエンスができたのは。しかし、それほど今日で言う人間、私達と全く同じ人間の出現というのは、そんなに古いことではないんですね。これは科学的に言ってもそんなに古いことではない。何十万年も昔じゃあないんです。何万年昔でさえもないんですね。これは文化・文明というもの、科学・技術というようなこと、芸術・学問というようなもの、所謂、文明・文化を持った今日の私達と全く同じような知能の程度を持ち、心を持ち、人格や宗教性を持つといった、二回目かにお話したような、そういう人間の歴史というものは、残念ながらそんなに古くないんです。所謂、有史以前と言いましょうか、そういう歴史以前の人間が、何十万年も古い人間があったとしてもですね、歴史というものを持ち、文化というものを持ち、人格を持っている今日の私達と同じ人間の歴史は、一番古い歴史でも四千年です。エジプトとか古代バビロニアなどの歴史がありますが、今から四千年前ですね。だからそういう時代が四千年前。ちょうどそれがですね、聖書ではちゃんとその時代はアブラハムの時代です。だから聖書に出てくるアブラハムなんていう人物は、私達はまるできのうのことのように、アブラハムさんなんて言って、彼の考えること、言っていることやしたこと、その宗教性や道徳性、倫理性、人間性などを感じ取ることができます。私達と全然変わらないです。アダムの物語を読んでも、全然私達と同じですね。罪を犯したら今日の私達と同じようにその罪を悔やんだり、悲しんだりしている。今日の私達と同じ道徳性、人間性を持っています。それを聖書ではアダムの出現は六千年前のことです。アブラハムは四千年前でした。日本の歴史なんて、唯の二千年でしょう。紀元は二千六百年なんてことがありましたが、あれは嘘だというようなことがありました。まだ二千年経っていない位です。神武天皇などと言ってもそうですね。大国主尊にしても二千年です。だから如何に聖書の歴史が古く、しかも確実に、正確に記録されているかということに対して驚きを本当に感じます。私達の日本の歴史は奈良、平安と言うと相当古いことのように思いますが、聖書から見るとほんの最近の歴史と言えます。

それから更に二千年経ってイエス・キリストの時代が来る。今から二千年前のことです。これ以前はBC(ビホアー・クライスト)と言って、キリスト以前を表します。本当にアダムが何年に生まれいつ死んだかという年月を繰っていきますと、聖書の通りに計算していきますと、アダムは丁度紀元前六千年前になります。だから聖書の年代記述は確実にそうでないとしても、或る程度は相当確実と言えるもののようです。最近では特にそういう本も出版されていますが、聖書の考古学的な確実性を却って証明するものとなっています。戦後証明する学問が一杯出ていますが、決してこれは好い加減な話ではないのでございます。それ以前の人間が、もし仮にいたとしても、聖書はそれを人間としては扱っていないと考えて下さい。最初の頃にもお話したように、そういうような遺跡や骨などが見つかったとしても、そういう人間の子孫が、今の私達日本人やアメリカ人やフランス人やドイツ人が、そういうネアンデルタール人や北京原人の子孫であるという確率は何もないのです。それはそれで滅んでしまった。氷河期や天変地異など色々な原因で滅んでしまった。寧ろ今世界に広まっている人間は、全部あの時お話したように、同一の種から出ている、同一の祖先から出発していると考える方がずっと当たり前なのです。何故なら、進化の度合いは全く同じだからです。現在のどの人種も進化的に言えば全く同じ程度の進化した人間です。それはこの前お話した通りです。ですから寧ろ本当にアダムに起源を発する方が、実際歴史的に見ても決しておかしなことではない、当たり前のことなんですね。そして現代が来る。聖書の預言をどんなに詳しく調べてみても、旧約聖書を何度通読しても、あるいはどんな偉い学者がどんなに研究してみても、聖書の歴史はここから始まってここで終わるんです。残念ながらそうなんですね。この先が無いんです。人間の歴史としてこの先を書いていないんです。現在を紀元二千年として、人間の歴史はほぼ六千年というのが聖書の考えです。勿論一年や十年の単位では全然そんなに簡単に決めることはできません。寧ろ現代は最後の終末の世紀というべき時代ですね。そういう世紀に来ているということが分かります。一番最後に千年期、この期間を千年王国と言います。本当にキリストの愛が、神の愛がこの地上に実現して、この地上をキリストが支配されるような時が来るということを、旧約聖書も新約聖書も宣言しているのです。これが所謂キリストの千年王国と呼ばれている時代です。丁度神様は一日は千年の如く、千年は一日の如しと言いますが、これは六千年が六日間で、最後の一日は神の安息の一日と言ってですね、最後の千年をその安息の一日にたとえて、黙示録の第十九章に千年王国のことが記されています。そしてその千年が済んでから、以後が永遠の神の御国または永遠です。これは先程申し上げた新天新地の永遠の、所謂天国と言いますか新天新地ですね。そういう時代に突入していくと、こういうように記されています。これが聖書のプログラムなんです。

もう少し詳しく申し上げますと、千年王国が始まる前に、ここをもう少し詳しく説明すると、ここに大体二千年位で三年半と三年半で、合計七年間の患難時代と呼ばれている時代が来るだろうと聖書は言っています。これももの凄く多いんです、預言が。患難時代は前期患難時代と後期患難時代に別れます。その患難時代が終わった後で千年王国が始まるということです。この患難時代の一番最初に、所謂キリストの再臨ということが行われるかも知れない。空中再臨とも呼ばれています。キリストの初臨は既にお話したように今から二千年前でしたが、ここではキリストが再び下って臨まれる、キリストが再びお出でになる時があるということで再臨です。そしてこの時代は教会時代、あるいは異邦人の時代とも呼ばれています。これはユダヤ人の時代です。選民の時代です。これは父祖の時代と言いましょうか、有史以前の時代と言いましょうかね、人類揺籃の時代です。これはユダヤ人が特に神に選ばれた時代、こちらは教会が選ばれる時代と言えます。異邦人の中から教会が神によって選ばれていく時代です。これはあくまで宗教的に申し上げた場合の話です。この時代の間にキリスト教の教会が神によって選ばれた。この教会は後に、こういう言い方はあまり関心しない面もありますが、キリストの花嫁としてこの機会に選ばれた教会、クリスチャン達はここでキリストに再会する。携え上げられて行って、ここでキリストに再会すると、聖書に書いてある通りに言いますとね。そういうように記されています。その後、そのように教会が携え上げられてしまった後、この地上には歴史に嘗てなかった程の大患難時代が始まるだろう。セブンスデイ・アドベンティストの人達は既に患難時代が始まっていると考えますが、私達は今はまだ患難時代は始まっていないだろうと思います。本当の患難時代はキリスト再臨の後で来るに違いないと考えます。前期患難時代はまだ大したことはないけれども、後期患難時代は決定的なもので、第三次戦争が始まる時です。初めは通常兵器の戦争が始まるようですが、最後には本当に決定的な原爆戦争 ・・・。この期間にハルマゲドンというところで、世界最終の戦争が始まると私達は普通信じて ・・・。聖書にそう書いてあるんですね。だからそういう風に聖書の通りに信ずればそういう風になります。マッカーサー元帥が厚木の飛行場に降りた時に、私は物心ついていましたから今でも忘れることができませんが、マッカーサー元帥がこの度の第二次世界大戦が、聖書に言われているハルマゲドンの終末戦争でなかったことを予は感謝している、などという発言をしていました。そのハルマゲドンというのは世界最終戦争です。しかもそれは、パレスチナを中心に行われるということは歴然とした事実です。聖書の預言によるとですね。パレスチナ地方で行われる。だからやはり石油ですね。有名なアラブとイスラエルのあの辺で起きるということが言われています。最近のある学者達の説によると、イスラエルが占領している死海には重水素、水素爆弾や次の時代のエネルギーの基になる重水素が無限にあることが発見されている。あの塩分濃度の濃い死海の中にね。必ず死海をめぐっての争奪戦が第三次戦争の火種になるだろう、などと予言している学者もいますけどね。あるいはそういうことになるかも知れません。今原子力ということをよく言いますが、原子力の基であるウランとかプルトニウムとかいうもの自体が実は余り無いんですね。有限なのですね。

現代は終末の世紀に来ているということを思わせる事柄が一杯聖書にある訳なんです。ノストルダムスの終末の大予言というのは西暦一九九九年の七月ですかね、私達はそういうことを言うことはいけないことだと思います。何故ならば聖書を読むと、使徒行伝の第一章とか、あるいはマタイ福音書の第二四章あたりに、イエス・キリストは、決して日にちのことを言ってはいけない、時また期は父がご自分の権威の中においておられるのであって、我々の知る限りではない、子もまた知らない、と言っておられるからです。イエス様でさえもその時点では知らない。時期のことなどを言ってはいけないと戒めておられます。人間は時期のことを言うとですね、必ずといっていい程、それまでは平気でいるものです。試験が確実に来るということが分かっていても、試験の数日前にならないと人間はバタバタとしないようにですね、時期のことを言ったら絶対に人はその時迄はいい加減になるものです。だから時期のことは聖書は言っていない。私も言わない方が良いと思います。今大体そういうことを言いましたけれども、実際その聖書は大体二〇世紀の終わりという風にやはり思わせる節が殆どなんですね。黙示録の第二章と三章には、教会時代の預言が書いてあります。この黙示録が書かれたのは西暦一二〇年、学者によっては八〇年と言いますが、八〇年から一二〇年位の間に書かれたと言われているのですが、その時代に各時代の教会に対する預言を言っているのです。そして黙示録の第二章や三章の預言を読んでみると、歴史の中に現れてくる各時代の教会の姿にドンピシャリと当てはまるんです。そして一番最後の時代である終末の時代の教会のことをラオデキアの教会と言っているんですが、このラオデキア教会というのは本当に民主主義ということなんです。その時代の教会の特徴は、暑くもなく冷ややかでもないと言って書いてありますけれども、今は本当にそういう時代ですね。終末の時代です。その終末の時代、最後の世紀にはどういう徴があるかということだけをちょっと読んでみたいと思います。マタイ福音書の第二四章三節から三六節です。三九頁から四〇頁です。ここは終末の問題に関しては最も有名な箇所です。

† またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起こるのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、その時、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。そのとき、だれかがあなたがたに、『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇蹟とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。だから、人々が、『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出ていくな。また、『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。死体のあるところには、はげたかが集まるものである。しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。

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■録音空白部分■

・・・ 背教・棄教ということ、これはもう終末の世紀の一番大きな特徴です。本当に歴史を見てみますとね、この世紀になってからなんです。あらゆる国民、あらゆる民族の中で宗教が忘れられ、神様から人々が離れて行く。神は死んだと言いましょうかね。哲学の世界は特にそうです。実存哲学というのは神の無い哲学です。神を全く殺してしまった哲学なんです。現代はあらゆる世界から、いつかも礼拝でお話したように、神は死んだというのが近代の夜明けです。それまでは人間の歴史の中で神様を信じないということが一番の罪悪でした。いまから五十年前までは。日本人は天皇が神であるということを信じないだけでも殺されたですよ。本当に。天皇陛下は神様だということを信じていない人は一人もいなかったです。少なくとも公には一人もいなかった。日本人は全部天皇を神としていましたね。天照大神を全部が拝んでいました。信仰が無いということが、日本人ばかりではないです、全世界の人類の中で神を信じないということが最高の不道徳だったんです。つい最近のことです。戦後ですよ。こんなに神様を信じることを馬鹿にする時代になったのはこの時代です。戦後です。人間の歴史始まって以来です。しかも神が無いと言うことを国是とし、主義・主張として唯物主義というものが生まれた。これは共産主義はそうですね。神を頭から否定する思想が共産主義。ですから本当に背教・棄教ということは現代の最も大きな特徴です。

二番目は不道徳です。神様を棄ててしまった結果、人間が獲得したものは虚無です。ニヒルです。本当に現代はニヒルの時代です。虚無の時代ですね。人間が万歳で神は要らないだと言って神を否定してしまった途端に、もの凄く自由になったと思って気が付いてみたら虚無が残っていた。本当に現代ほど虚無の時代はないんですね。今人々の一番大きな問題は生きる意味がない、見つからない、目的が分からない、人生が空しいということです。衣食足って礼節を知ると言いますが、衣食足って空しさを知ったというのが今の時代です。全くそうです。世界的な傾向ですね。その結果の現れが虚無で、虚無は必ず不道徳を生みますから、人々の愛が冷ややかになる。不法が蔓延るによって人々の愛が冷ややかになると書いてありますが、これは終末世紀の最も顕著な特徴の一つです。今の若い子供達は本当に虚無ですね。全く空しい。生きる意味が見つからない。そして快楽、エゴイズム。テモテ第二の手紙の第三章の一番最初を読んでみますと、本当に今はね、神よりも快楽を愛すること、神様よりもお金を愛すること、あるいは快楽を追求すること、そういう時代が終末の世紀だとはっきりと書いてあります。英語でラスト・エイジ。一番最後の時代は全くそういう時代になるぞ、ということをパウロは既に予告しています。それはね、哲学自体が虚無であり、そして宗教そのものが不道徳な時代です。本当に宗教が不道徳です。宗教そのものが金儲けを目的としていることが、本当に先ず第一に多いですね。

三番目は偽キリストの出現です。私は別に共産主義を悪く言う訳ではないけれども、共産主義というのは、ロシア革命から今年が六一年目か六二年目かに当たりますが、マルクス・レーニンによる共産主義というのは、これは全く聖書的に言えばこれはキリスト教に対する反逆と言いましょうか、キリスト教を否定するためにできた、と言って決して言い過ぎではないんです。全くその通りですね。だからマルキシズムというものは、マルクス共産主義が世界を救うのだということは、俺がキリストだと言ってるんです。キリストということは救主ということですからね。だから共産主義でなければ世界は救えないのだと言ってですね、それは別の面から言えばキリスト教に対する、何と言いましょうか、挑戦として共産主義は生まれたんです。そのマルクスという人は神学校を出た人です。牧師の資格も持った人ですね。だけれどもキリスト教が堕落していたために、キリスト教が世界を救えないために、あるいは救えないかのように見えるために、そんなことでは人間は貧すれば鈍するで、先ずパンの問題を解決しなければ人間は救われないじゃあないか、天国だの、アーメンなどと言ってどうなるかという所から、発想から出ているようです。だからこれは正にですね、偽キリストの最たるものは政治的に言えばキリスト教です。宗教的なことから言えばですね、色んな我こそは本当の宗教、メシアであるという宗教が一杯この世紀にできてきました。それまでも儒教とか仏教とかマホメット教とかいうものが、我こそ救主と言っているということは、キリストの立場から言えば我こそ偽キリストと言っているということです。我こそキリストと言っていることに他なりません。だけれどもこの世紀になってからは、モルモン教、統一教会、エホバの証人、クリスチャンサイエンスとか、色々な新興宗教的キリスト教は全部この世紀に始まっています。日本では天理教、メシア教、大本教、全部そうですね。今世紀というのは宗教の大混乱の世紀です。一方では背教と不道徳が行われるために、それに対抗するかのようにですね、色んな宗教が一杯できています。これはまあキリスト教の罪なんです。キリスト教が本来のキリスト教としてしっかりしていないためにですね、日本でもそうですし外国でもそうです。その為にそういう諸宗教というものができて来たと言って決して、これはもう世界的な分野から見れば明らかにそうです。世界の宗教はキリスト教ですから。世界的に言えばキリスト教が最高・最大の宗教で、クリスチャンの数が今でも十億いますからね。仏教徒が一億か二億で、マホメット教がせいぜい二億か三億だと思います。世界的に言えばキリスト教が最大宗教で、教会が本当にその使命を果たしていないために、もろもろの偽宗教、偽キリストが出てきたと言えると思います。

第四番目は明らかに戦争です。戦争と戦争の噂を聞くであろう、とあります。戦争と戦争の噂と言うんですから、いつも噂で怯えなければならない。今までの世紀でもいつでも戦争はありました。人間の歴史が始まって以来、戦争のないことは一度もなかったんです。だけれども、世界中を戦争に巻き込むような戦争の世紀というのは、誰が考えても二十世紀なんです。西暦一九一四年に第一次世界大戦が始まりました。今世紀に入って間もなくですね。それから第二次世界大戦がありました。それまでの世紀で人間の歴史が始まって以来、全部の戦争で死んだ人間の三十倍も五十倍もの人間をこの世紀に殺しています。日本だけで三百万人の戦没者がいます。今度の戦争ですね。今までの昔の戦争なんてものは、百人殺すのも千人殺すのもおおごとです。昔のように、やあやあ、我こそはなんて、いちいち首を切ったりしていたんではね。現代の戦争では一個の原子爆弾で二十万人が死ぬんです。それが第二次世界大戦の姿です。今度第三次世界大戦が始まったら、これはもう、聖書の預言によるならば、原水爆で世界の三分の一は死ぬでしょうね。後の三分の一は疫病と言いますから原爆病みたいなもので死ぬでしょうね。そして生き残るのは三分の一だと預言の中にそう書いてあります。だからそれは実現するかも知れません。人類が生き延びたとしても、後世の人がね、二十世紀は人類の戦争の世紀、破滅の世紀であった、実に人間は自分の作った科学技術によって自ら滅んでいった、と絶対に記録されるに決まっています。もう既に、二回にわたる戦争で十分そう言われる資格があります。二十世紀は正に戦争の世紀です。それ以前の戦争というものは本質的に侵略戦争ですから、ナポレオンにしてもジンギスカン、古代ギリシャ・ローマ、全部そうです。侵略戦争でしたから侵略が済めば無駄に人を殺しませんでした。現代の戦争は思想戦争ですから、ベトナム戦争を見ても分かりますが、徹底的に相手を殺さないと気が済まない、無差別に人を殺さないとおさまらない。だから今後戦争が始まったら恐ろしいと思いますね。本当にどんな殺戮が行われるか分からないですね。降伏すれば済むというものじゃあないですね。

五番目は、戦争と同時に聖書は飢饉のことを言っています。この飢饉というのは食糧難じゃあないと思います。食糧難も日本など由々しい問題ですが、世界的に言えばですね、これは明らかに特に地下資源の絶対的な不足が目に見えている。石油は今の使用状況では、あと二十年保つか保たないかだと言われています。単純計算でよくそう言われていますね。新しい油田や新しい内燃機関が見つかるかどうか分かりませんが、石油だけでなく鉄にしても錫にしても銅にしても、あらゆる地下資源が枯渇してきています。地球の資源は有限で、どう考えても現代のように浪費していては、そういつまでもいつまでもとは無理な話です。本当に人間の文化・文明が花咲いたのはごく短い期間で、それは何十億年という長い間かかって堆積し蓄積してきた地球の地下資源というものを、極々短期間に全部使い切ってしまうということになると思います。単なる飢饉だけではない、公害問題もあります。大気汚染や海洋汚染とかといったように、ある学者の説によると、一番恐ろしい飢饉は酸素が欠乏する時が必ず来るということだそうです。酸素の欠乏が恐ろしい。ジェット機が一時間空を飛ぶと、二十万人位の都市の人々が一日に吸っている酸素を消費するそうですね。あまり問題にされていないけれども、この問題が一番恐ろしい。あらゆる燃料を燃やせば全部酸素を必要とするんであって、酸素の供給源は森林とかの植物ではなくて、一番の供給源は海洋性の植物プランクトンだそうです。ところが現代では、石油汚染であらゆる海域が廃油ボールが浮かぶなど汚染されている状態です。そしてこの酸素欠乏の兆候が現れたら、もうどうにもならなくなる時があるんだぞということが新聞に出ていました。私達は楽観的に考えたいですけれども、そういうような物資の不足ということが非常に恐ろしいことだと思います。

六番目は疫病の発生です。これらのことは先程読みました聖書に全部記されていることです。黙示録で読みますと新しい病気と書いてありますが、これは明らかに原子病と言いましょうか放射能によるところの新しい病気、あるいは薬源病とか医源病とかいったものもあるかも知れません。一番恐ろしいのは核戦争による疫病かも知れません。

七番目が地震です。勿論どの世紀にもいつの世紀にも地震はあったんですが、三、四年位前から地球は地震の群発時期に入ったと言われています。今まではそんなになかったのですが、今はマグニチュード七とか八とかという規模の地震が、全世界的にもの凄く起きるんですね。嘗て起きたことのない北京だとか中国大陸の奥地であるとかという所でも地震が群発している。北米大陸でも地震が起き始めている。日本沈没なんてこともいつか騒がれましたね。どうも地震の群発期に入っている。最後にはエルサレムの町が地震で真っ二つに割れることが黙示録に書いてあるんです。ゼカリヤ書にもあるんです。最近エルサレムの地層を研究した人によると、本当にそこに恐ろしい断層があるそうですね。聖書の預言を裏付けるような話として何かで読んだ覚えがあります。

第八番目が迫害です。これは患難時代に入ってからだと思いますが、恐ろしい迫害が始まります。その迫害の前に独裁者の出現、偽キリストと言いますが、その独裁者によってその患難時代にはクリスチャンの迫害が始まる。そのひな形はナチス・ドイツのヒトラーによって行われたユダヤ人の迫害ですね。六百万人が殺されています。第二次世界大戦でです。そのユダヤ人の迫害のことも聖書はちゃんと予告しています。それは本当に実現していますね。ユダヤ人の迫害だけでなくて、今度はその時期には、キリスト者の迫害も患難時代には始まる可能性があります。私達は幸いなことに、聖書によれば、その前に天国に疎開することになっているんですがね。うっかり疎開できないでいると、今までのヒトラーやムッソリーニや東条英機やナポレオンやファラオやアレキサンダーなどなど、人間の歴史が始まって以来、恐ろしい独裁者を全部ひっくるめにしたような、もの凄い独裁者が出現するなんてことになると思います。これを聖書は偽キリスト(アンチ・クライスト)と呼んでいます。そして教会に対して挑みかかって来る時が来る。その最頂点で、もう一度キリストが来られ戦われることも予告されています。それがハルマゲドンでの大戦争で、世界中から二億の軍勢を集めてこの独裁者はイスラエル民族を攻撃するんですね。東のユーフラテス川を渡って二億の軍隊が南下して来ると書いてますね。ユーフラテス川を渡って来るということは、明らかに中共から来るということです。中共なら二億の軍隊、それ位なら今でもいますよ。まあ中共を全部空にして来ることはないでしょうが、ユーフラテス川を渡ってやって来るということも黙示録に書いてますね。そして迫害とこれとは逆にした方が良いかも知れませんが、迫害の世紀が最後にはやって来ます。ユダヤ人の迫害、六百万人とはよく殺したものですね。最後は物理的に殺したんですね。殺人工場ですね。『アンネの日記』とか『夜と霧』とか読んでみるとですね。今アメリカでナチスの迫害が再現されて『ルーツ』と同じような視聴率を得ており、全アメリカの三分の一の視聴者を得たということが最近の新聞で報道されていました。

その後で、今度は時期的には前後しますが、聖書の中には福音による全世界の占拠が来ないと終わりが来ないとイエスは言ってますね。福音が全世界に証される。これが前回の聖書論の時にお話したように、今世界中で二百人以上方言(国語)を使う人がいる民族・部族があれば、もうそこへ聖書を翻訳して届けるといった、福音の世界占拠のために一生懸命その協会は努力しているようですね。もう殆ど世界中どこでも、福音を聴こうという意志があれば聴くことができる体勢ができているんです。どこでも、日本だって聴こうという気があればね、朝ラジオ放送を一生懸命やっています。教会に行くのは自由です。聴こうという意志があれば、この御国の福音は全世界に宣べ伝えられるだろう、これはもう殆ど完成していると言ってもいいですね。

それから終末の大きな特徴はイスラエルの独立です。先程のところの言葉で言うなら、ゼカリヤ書やマラキ書とかエゼキエル書など、色んなところにイスラエルの独立は一杯預言されていますが、今読んだマタイ福音書の第二十四章のところだったら、いちじくの葉が芽ぐめば、夏の近いことを悟りなさいとあります。いちじくというのはイスラエルの紋章です。イスラエルの国旗です。いちじくの葉が芽ぐむというのは独立したらということです。夏の近い、夏とは終末ですが、このイスラエルの独立は西暦紀元一九四八年で、これが戦後、群小独立国の最初でした。そしたら一斉に、葉が芽ぐめばと聖書にある通り、イスラエルが先ず戦後最初に独立しました。それまで世界の国は五十五ヶ国か五十六ヶ国でしたが、今は二百位あるでしょ。いちじくの葉が芽ぐんだら夏の終わりが近いんだよ、とイエスは預言しています。だから私は神学校へ行った時、丁度イスラエル独立の頃ですよ。聖書の預言学の先生なんか、もうとにかく終末の世紀に入った ・・・ それは世紀だって、世紀は五〇年も六〇年もその当時あったのですが、終末の世紀であるということは覚悟しなさい、何故ならばイスラエルが独立した、ということでした。その間イスラエル民族は西暦七二年に国家を失ってから、約二千年間国家がなく流浪の民でした。それが驚くべきことに西暦一九四八年に本当に独立したんです。こんなことはもう世界史の大奇蹟ですね。そんなことはある筈がないです。二千年間国家を持たなかったのに独立しました。そして、しかも驚くべきことに、ダニエル書の第十二章でしたか、いつ独立するかということが年までピチャッと預言されています。当たったんです。計算の仕方は省略しますが、ダニエル書の第十二章の十一節から十三節をご覧下さい。一二四三頁です。

† 常供の燔祭が取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。しかし、終わりまであなたの道を行きなさい云々。

この千三百三十五日とか、一日は一年と預言では数えますから、これはマホメットがエルサレムの常供の燔祭を廃止してしまった時から数えてです。それでこの数字が丁度、西暦一九四八年のイスラエル独立に当たります。マホメットのこれは六百何年ですからね。それまでは、エルサレムでは細々とでもユダヤ式の燔祭が捧げられてきたんですけれども、それが廃止されてからです。そういう具合に、預言の学者達の研究によるとですね、全部ドンピシャリと当たっていってですね、大体西暦二千年の頃には終末が来る公算が大きい、ということを覚悟しておいても悪いことはないと思います。

それから富の偏在ということです。これもダニエル書に予告されています。

更に知識の増加。知識があまねく世に満ちるでしょう、と今読んだダニエル書の第十二章に書いてあります。同じくこの第十二章には、世界中の人々が飛び交う時代が終末ですと書いてあります。今正に世界中飛び交う時代になったですね。昔の人はそんなことは夢にも考えないでしょう。飛び交うなんてことはできない。今は飛び交う時代です。日本人だけで去年だか一昨年だか、海外旅行者は一年間で二百万人以上ですよ。韓国や香港も入っているんでしょうが。驚くべき時代が来たものですね。そして知識の増加ということは、この世紀の特徴です。あらゆる科学・技術、例えば電気を考えると、今世紀初めには殆どの家に電気なんかなかったですよ。今一九七八年ですね。まだまだ私が子供の時に田舎に行った頃はランプを使っていました。四〇年前の話です。まして電気洗濯機やテレビなんてありゃあしない。まだ本当に草鞋を履いたのはまだ今世紀の初めです。この世紀の科学・技術の知識の増加というものは驚くべきことですね。それは終末の世紀です。聖書の預言ならそうなんですね。だから人間の富とか文化とか文明とかいうものが、本当に絢爛と花咲いて爛熟し切ったところでポタッと落ちてしまうというような、あるいは果実が爛熟して落ちる寸前という風な爛熟の仕方を今している。

人類の歴史そのものがそうです。もう使う物は全部使い果たして、悪い事はし放題やって、道徳的にも最低まで堕ちて、そして終末を迎えるという時に来ているんだ、今そういう時代のどの辺にいるかはともかくとして、そういう時代の中に入っているということは確かです。人々が平和だ、無事だ、安全だ、保障だと言っている時に滅びが俄に来る、とパウロは言っていますが、本当にそういうような時代に今来ている訳です。そして黙示録を読んでみますと、更に恐ろしいことは第三次戦争の様相が全部予告されている。そのハルマゲドンの戦争の辺りのこと、そして遂に待ちきれなくなって、最後には核兵器が空を飛び交うであろうというようなこと。そういうようなことをこの前お話したように、ジェット機のことまで聖書は言っていますね。鉄のイナゴが万雷の響きをあげて飛び交っているのをヨハネは幻の中で見ています。そういうような終末の世紀の戦争の恐ろしい様を描写しています。鉄の戦車とかイナゴとか、恐ろしい毒を持っているもの、あるいは所謂火炎放射器のようなこと。あるいはゼカリヤ書なんかを見ると、毒ガスのこと、催涙弾のこと、糜爛性の毒ガスのことなんかも書いてますね。たちまちの内にそのガスにより目が溶けてしまうようなことが書いてあります。とにかくですね、どうしてそんなことを見たのか知りませんが、第三次戦争の時、地を覆うような戦車が地響きを立てて北から下りてくるという記述があります。これなんか恐らくソ連の名うての戦車群のことだろうと思いますね。しかもそれは熊と獅子との戦いなどと書いていますから、熊と言えばどう考えてもソ連でしょうね。獅子とは、どう考えてみてもアメリカを中心とする何か自由主義国家群みたいな気がしますね。しかもそれは連合軍だと書いてあります。

だから私達は今の文化の表面的な華やかさだけを見て踊らされていてはいけない。その背後に世界の歴史が恐ろしい終末に向かって動いているということを ・・・ だからそれは大変我田引水ですが、あなた方にとっては救いの時が近づいているのだ、ルカ福音書の第二十一章です。イエスはそう言っています。だから、あなた方は顔をあげてしっかりと目を覚まして見ていなさい。絶対にこの世の精神に負けないようにしていなさい。いよいよ今、夜がふけて来るとみんな眠ってしまうけれども、眠らないように目を覚ましていなさい。例え体が眠っていても心は覚めていなさい。そして本当にそれに巻き込まれないようにしなさい。しかし、その時代に対する責任は持ってね、福音を宣教し、あるいは道徳的にも精神的にも、それを支えていくようにやっていかなくちゃあいけないと、その精神を捨てるんじゃあなくて、憎むんじゃあなくて、嫌うんじゃあなくて、その中にあって目を開けてですね、物見や斥候が見ているように見ていきなさい。時代の移り変わりをよく見なければならない。だから私は聖書と新聞と思います。本当に新聞を見たりニュースを聞いているとね、大きな時計の針が急にカチッと一つ動くようにね、イスラエルで何か問題があったり、あるいはソ連が何かを言ったり、アメリカがどうとか、また時計の針がカチッと動いたんだな、一つ進んだんだなと思うんです。今直ぐではない。その時期を気にし過ぎるのはどうかと思いますが、一面では今か今かと、今日であってもいいんであってですね。あるいは聖書の中に、神様は千年を一日の如く待ち辛抱される ・・・

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