自我は死んだか

福音を知る前は,他人のすることが気になって,あの人がわるい,この人がわるいと,人のことばかりを取り上げて,批判ばかりする。他人の自我と自分の自我がぶつかって,たがいに傷つけあう。

ところが聖書を知ると,自分の醜さがよくわかり,人のことなど気にならず,自分の醜さが見えてくる。しまいには,自分の罪ばかり見えてきて,「ああ,われ悩める人なるかな」と叫ぶのだ。

自我の醜さに気がついて,はじめてほんとうのキリスト者生活が始まるのだ。だから救われても,少々年月がたって古い役員になったとしても,自我が生きているうちは本物ではない。自我は死ぬべきものであって,鍛えるものではない。自我の鍛錬は世のものであって,教会の目的ではない。

教育も訓練も,自我を殺すことはできない。むしろ自我が強くなり,よくやる人ほど難しく,古い人ほど始末がわるい。牧師の自我と役員の自我がもっとも強く,ぶつかりあえば火花が散って,まわりの人がやけどをする。

しかし,どんなに強い自我も古い人も,むんずと捕らえて十字架につけ,殺してくださる方がいる。このお方の死の中にだけ,いかなる自我をも殺す力がある。

あなたの自我は死んでいるか。それともいまだ,生きているか。

「われ,キリストと共に十字架につけられたり」 -使徒パウロ-

『現代つじ説法』 植竹利侑著 (新生宣教団 1990刊)より