自我は死んだか

« 植竹牧師の「それでもまだ言い足りない」

■ 自我は死んだか

福音を知る前は、他人のすることが気になって、あの人がわるい、この人がわるいと、人のことばかりを取り上げて、批判ばかりする。他人の自我と自分の自我がぶつかって、たがいに傷つけあう。

ところが聖書を知ると、自分の醜さがよくわかり、人のことなど気にならず、自分の醜さが見えてくる。しまいには、自分の罪ばかり見えてきて、「ああ、われ悩める人なるかな」と叫ぶのだ。

自我の醜さに気がついて、はじめてほんとうのキリスト者生活が始まるのだ。だから救われても、少々年月がたって古い役員になったとしても、自我が生きているうちは本物ではない。自我は死ぬべきものであって、鍛えるものではない。自我の鍛錬は世のものであって、教会の目的ではない。

教育も訓練も、自我を殺すことはできない。むしろ自我が強くなり、よくやる人ほど難しく、古い人ほど始末がわるい。牧師の自我と役員の自我がもっとも強く、ぶつかりあえば火花が散って、まわりの人がやけどをする。

しかし、どんなに強い自我も古い人も、むんずと捕らえて十字架につけ、殺してくださる方がいる。このお方の死の中にだけ、いかなる自我をも殺す力がある。

あなたの自我は死んでいるか。それともいまだ、生きているか。

「われ、キリストと共に十字架につけられたり」 -使徒パウロ-

『現代つじ説法』 植竹利侑著 (新生宣教団 1990刊)より