私の母教会は,戦前から牧師婦人とご長女が助産婦をして教会を支え,牧師先生は厳しく献金を命じなかった。私自身も父が早くに死に,母が多くの子を育て,戦中・戦後を苦労していたのに,私を中学に行かせてくれたから,小遣いを貰ったことはなかったので献金はできなかった。そのかわりに余暇の全部をささげた。会堂献金の予約の紙に,「われに金銀なし。されどわれ自らを神に献ぐ」と書いて献身することもできた。16歳の時だった。
神学校は戦後間もなく貧しかった。校長の星野栄一師は,極貧の貧しさの中でも,自己犠牲の精神で,授業料も食費も払えない学生を大勢抱えてくれた。神学生ならぬ貧学生も,風呂に行けずに臭い仲間が大勢いた。
だから私は,広島平和教会へ就任しても,献金のことはほとんど言わず,なければ食べずにいたことが多かった。少数の会員の皆さんは喜んで献げて下さった。
以来,51年間(平和教会23年半)伝道・牧会して来たが,献金を義務的・律法的に語ることはしないできた。教会員の皆さんは,それなのに心からよろこんで献金と奉仕をしてきて下さった。それだから,この教会は非常に祝福されてきたと思う。
いま聖書日課で読んでいる出エジプト記に,幕屋の建設のことが詳しかったが,民らはみな,よろこんで金銀・宝石・貴重な布などを献げ,作業したと記されている。自発性こそいのち,強制は死である。