第4講 人生の転機

« 植竹利侑牧師の人生論シリーズ

■ 第4講 人生の転機 音声
■ 第4講 人生の転機
[植竹利侑牧師]

こんばんは。皆様よくお出で下さいました。特別講演会も今日は4日目ということで、お話も段々と佳境に入ってくる時だと思います。(編集者注:著書から刑務所と息子さんのエピソードが紹介されていますが、ここでは省略しております。)

昨日は「人生における愛と憎しみ」というお話をさせていただきました。今日は「人生の転機」と題してお話させていただきます。私どもの教会を見ましても、年配のご夫婦で今が新婚家庭かと思うほど羨ましい家庭生活をなさっておられる方がおられます。また長年にわたって病の中にあった方で、神様の恵みが自分の心の中に注がれてくるのを体験的に肌で感じ取られ、今では様子もすっかり変わられた方がおられます。いずれの方も、本当に人生の大きな転機を迎えた方たちです。今晩はそういうお話をします。

昔は心という字はコロコロと言ったそうです。コロコロでは長すぎますから、一つ省いてココロになったと言うのです。何故コロコロと言うのかと申しますと、人間の心はコロコロ変わるからです。間違いない絶対大丈夫よ、と言ったって直ぐ変わってしまうのです。年頭の決心にしたって、三日も経つともう変わるんですね。朝言っていることと夜言っていることが全然違う人がいっぱいおられます。それほど心は頼りにならず直ぐ変わるから、心をコロコロと言ったというのです。それでは困るということで、必ずよと言う時は心に心張り棒をすると「必」という字になります(笑)人間は大事なことでも直ぐ忘れたり、必要なことでも直ぐに止めてしまったり、決心したこともコロコロと変わります。明日から禁酒という誓いを立て、いつまでも禁酒しなかったという有名な笑い話もあります。直ぐ変わるくせに性質は一つも変わらない。心はコロコロ変わるのに、悪い性質や習慣はちっとも変わらない。人間とは本当に困ったものだと思いますね。性格や性質は決して良くならない、そんなに簡単には変わらないんです。

私どもの教会に素晴らしい小学校の先生がおられますが、その方によると子供は変わると言われるんです。どんなにつっぱたり、どんなにだらしない子供でもね、先生が本当に本気にその子供を愛して愛して、そして厳しく叱るとね、子供は変わると言われます。本当に愛情を持って接すれば子供が変わる姿を何度も目にされたそうです。でも、大人は、親は変わらないと言って嘆いておられました。大人は変わらないけど、子供は変わる余地が残されているということが分かります。青年にもまだ若干接し方で変わる余地が残されています。でも、大人が変わるというのは本当に難しいと思いますね。

人間の性格はどのようにしてできてくるのでしょうか。生まれつき親から貰った気質・体質がありますね。それは本当に不思議な感じがするほどで、電話で息子と私、娘と妻を間違えて一生懸命話しておられる人がいらっしゃいます。兄弟や親子というのは本当に体質が似ていますね。体質のタイプにも色々あります。第一番目は極めて明るいけど薄っぺらい多血質。第二番目は憂鬱質です。多血質の対極で、とにかく暗いです。年中不平・不満、皮肉屋です。でも、こういう人は陰気ですが、非常に深く物事を捉え洞察するというのが特徴です。人間としては一番優れたタイプですね。しかし、うっかり間違うと、その深さが妬み深さになったり、意地悪の深さになったり、疑い深かさになったり、その深さがマイナスになることがあります。内向的で傷つき易く友人は少ないが深い交わりができる。良ければ思慮深いが悪くするとノイローゼとなります。もう一つは胆汁質型です。非常に意志が強い。いったん決めたらやり通す人です。頑固一徹という性質です。第一のタイプが広ければ、第二は深い、この三番目の胆汁質タイプは強さが特徴です。意志が強くて良いのですが猪突猛進型です。他人の思惑なんてこのタイプには関係ありません。ですから他人を非常に傷付けますね。第四番目は粘液質型です。このタイプは冷静です。静かです。絶対に熱中しない。いつでも客観的に分析します。損をしないように有利な方につきます。冒険を嫌い生活が堅実です。質実剛健、真面目で正しく立派で、いつでもきちんとした服装をします。忠実だけれども諦めの人生を送る場合が多いですね。そういう具合に人間には色々な気質があり、それぞれ良い面と悪い面を持っています。

性格・性質というのは、その気質をどのように教育化するか、訓練するかによって性格ができてくるのです。野放しにしておけば気質の悪い所ばかりが全部出てきます。これをきちんと訓練すれば良い面が伸びてきます。だから、性格とは親からもらった気質と環境、教育によってできると言って良いと思います。自分の子供の気質を良く観察し、その気質に合った教育をすれば良いのですね。環境や教育によって人間の性質は大きく変わってまいります。この環境は本人の責任ではありませんが、例えば国籍、人種、家柄、両親の教育方針・レベル、職業などは子供の性格に大きな影響を及ぼします。そういう気質プラス環境が子供の性格決定に大きな要因となります。しかし、それは子供本人の責任ではないですね。何故なら物心ついた時には、もうそういう環境下にあるわけですから。そういう性格が与えられてしまった後で気が付くわけです。子供の性格は絶対に本人の責任ではないと思います。絶対に親の責任です。自分の子供を口汚く罵る人がいますが、それは的はずれです。問題児はいないんですよ。問題親がいるだけです。失礼だけれどもそうなんです。子供は白紙で生まれてくるのであり、その白紙の紙に色をつけたりデッサンしたのは絶対に親です。大きくなっての子供の問題性は急に出てきたのではありません。小さい時からその傾向性はあった筈です。ただ小さい時は実害が少ないから放っておいただけです。しかし中学生では社会問題となります。勿論、親だけの要因ではありません。大きくなるほど、どんな友達を選ぶか、どんな本を読むか、どんな学校を選ぶか、勉強するかしないか、本人の選択も段々と影響力を増してきます。最後にどんな職業を選ぶかも大きな影響力を持ちます。そして最後に誰と結婚するかが大問題です。夫婦にあっては、特にお互いのマイナスの影響を受けることがあります。

これまで述べてきたように本人の責任も大きいのですが、では、それでは人間はもう駄目なんでしょうか? 変わることはできないんでしょうか? 自分の嫌で堪らない性格は変えることができないのでしょうか? 皆さん、聖書はできると書いてあるんです。本当に性格まで変わることができると書いてあるのです。教会員でもびっくりするくらい変わられた方がおられます。65歳になっても人は変わることができる。性格まで変わります。最後にたった一つ、人の人格・性格に変化をもたらす途が一つあります。それは宗教です。本当に宗教は凄い力を持っています。本当にもし貴方が信じることができるなら、どんなドラ息子でもね、どんなくだらないご主人でも奥さんでも変われるんです。神様は確かに変えて下さる。その人の人生観も性質も全部変えて下さいます。

これも中国新聞に書いた文章の紹介です。

「小さな子供を見ていると、その中に無限の可能性が潜んでいることが良く分かる。しかし、誰かがその子を心から愛し育んで、その才能を引き出し、開発し訓練しなければ、その可能性の殆どは未開発のままで終わってしまう。もし自分の家の地下に恐懼の財宝や地下資源が埋蔵されていたとしても、誰もそれを知らず、発掘もせず利用もしなければ、それは無いのと同じである。物ならば利用されようとされまいと問題はないが、人間はそうはいかない。可能性があるのに開発されず、才能があるのに生かされないと、不完全燃焼のストーブのように夥しい煤を出して、本人の不幸はもちろんのこと、周囲の人にも多大の迷惑を及ぼすことになる。」

そうなんですね。可能性があるのに生かされないと、自分が不幸ばかりが他人をももの凄く煤だらけにしてしまう。エネルギーはどんどん浪費され、石油はあっと言う間になくなってしまいます。煤ばかりが出ることになります。例えば器用な人が素晴らしいお師匠さんに出会って、その才能を生かして手に職を持てば良いのですが、誰もその才能を生かしてくれる人がいなければ、パチンコばかり上手になったり、麻雀ばかり上手になったりする人もいます。誰かがその才能を生かしてくれなければ、人間は残念ながら自分では自己の才能を生かすことができないんです。誰かが引き上げてくれないと、生かしてくれる人に出会わないと駄目なんです。

「よく学生時代は暴走族、社会に出ても鬱々として転々と職場を変えていた人が、これが天職というような仕事に巡り会うと人が変わったようになることがある。そのような場合は、必ず誰かその人を良く理解し、愛し生かして用いてくれる人物・人格に出会うことができたのだと思う。悲しいことに、人間は自分ではなかなか自分の才能に気がつかない。気がついても、それに自信が持てない。生かすことができない。社会に認められ、人の役に立つようになるには年期が要る。どうしても良い師に出会い啓発・薫陶をいただく必要がある。人に教えられなくても自分で自分の才能を発揮し、幼少の頃から人を驚かせ、かつ大成するのは天才である。」

先程お話した活発な胆汁質型の人は他人に教えられなくても良いのです。教えられることが嫌いなのです。自分の意志で何でやれるんですからね。しかし、そういう人は天才型の人です。

「それは天才であって、誰にでも期待できることではない。そう思うと私は、まだ少年と言って良いほどの若い頃に偉大な人生の良き師に出会ったことを感謝せずにはいられない。この方は私のことを良く、私自身が知っているよりも良く知っておられる。私の弱さ、軽薄さ、虚無感、劣等感、敗北感、そして性の欲望と自惚れと好奇心など、醜い私の全てを知ってこれを赦し、不始末も全部引き受けて、いつも傍にいて教えて下さった。」

私は本当に劣等感が強かったのですね。優秀な兄と妹に挟まれ、私は身体も弱くてね。私にも色々な欠点があります。だから、それが嫌で嫌で堪らなかったですね。本当に私は劣等感のかたまりのような人間でした。ところが私の先生は私のことをようく知って、そして全部赦して教えて下さる方でした。

「私の先生は愛の深さ、品性の高潔さは例えようもなく、私が間違ったら厳しく叱り、詫びて帰ると涙を流し抱いて喜んで下さった。そして、折りに叶った教師を私につけ、専門の教育もして下さった。私は早く父を亡くしたが、自分の父以上に全責任を負って下さる方に出会って、誰よりも幸せだったと思っている。人生は出会いで決まる。出会いとは、その人の人生を変えてしまうほどの人物に巡り会うということである。ちなみに、私の出会った人の名前を申し上げよう。その人の名はイエス・キリスト。」

私はね、イエス・キリストという人と本当に人格的な出会いをしたんです。生身の人間ではありませんでしたが、牧師さんを通して、聖書を通してですが、キリストという人に出会ってしまったのです。本当にその人の生涯を変える唯一最後の手段が残っています。それはね、神様と出会うということなのです。自分の力では探すこともできない、近づくこともできない。聖書を読んでみると、聖書の中の人物は全部、イエス・キリストと出会った人の全部は、キリストの方がその人の方に近づいて来たのです。これは驚くべきことなんです。聖書を見てみましょう。ルカによる福音書の第18章35節から43節をご覧下さい。

『イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって物ごいをしていた。群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しくさけびつづけた。「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼は近づいたときに、「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。そこでイエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。』

続いて第19章1節から10節です。

『さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は収税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。イエスは彼に言われた、「きょう、救いがこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。』

聖書にはいたるところにキリストと出会った人物のことが書いてあります。聖書はキリストと出会った人物のつづり合わせです。それが聖書です。その中の二つだけをピックアップしました。このエリコという町で二人の人物にイエスは出会ったのです。エリコという町は被差別部落でした。この部落は町そのものが町中から嫌われていました。そういう町に一人の盲人の乞食がいたというのです。多分四十歳くらいだと思います。マルコ福音書の第10章には、この人がテマイの子バルテマイだという名前まで書いてあります。他の福音書には名前までは書いてないのですが、マルコ福音書にはバルテマイという名前まで書いてあります。だからこの人は、マルコ福音書が書かれた時代には教会の中で最も有名な長老か役員さんになっていた人です。読んだ人が、ああ、あの人がそうだったのか、素晴らしいですねとバルテマイさんのことを通して神様を讃美したのです。だから名前がちゃんと記されているのであり、たとえ話などではなく本当のことです。

このバルイテマイさんは40歳になるまで盲目でした。40年というのは長いと思いますね。40年間不幸な生活をしていると不幸が板に付きます。皆さんでも40年間も乞食をしていたら乞食が板に付くですね。彼は人生40年、乞食で盲目でした。彼は真っ暗な生活をしていました。人生に何の望みもない、人生の転機を全く諦めていたと思います。それなのにナザレのイエスというお方の噂が耳に入ってきたわけです。そしてナザレのイエスがらい病人を清める、死人を生かす、盲人が見えるようになったという噂を聞いたんです。彼は矢も楯もたまらなくなって、ナザレのイエス様!来て下さい!来て下さい!・・・と言って、彼は心の中で毎日毎日叫んでいたのです。だから転機が来ました。イエス様の方からエリコの方へやって来られたのです。これはイエス様の生涯の最後の土壇場の出来事です。直ぐこの後、受難週から十字架で死んでしまうのです。その生涯の最後をイエス様は遠回りをして、わざわざエリコの町まで、このバルテマイの祈りに応えて行かれたのですよ。前後を見るとそのことが分かります。

もう一人はザアカイです。彼は背が低くて、ザアカイとは純粋という意味の名前でした。子供時分にはとっても純粋で良い子と言われて育ちましたが、残念なことに体力がなく背も低かった。みんなに苛められて、当時は特に力の世界でしたから、力のないものは全く惨めでした。彼はそれまで苛められ続け、いつとはなしに力を求めた。そしてその力を体力ではなくてお金の力に求め始め、遂に行き着いたのが税金取りでした。それは当時、一番嫌われる職業の一つでした。そして段々お金を儲け、お金の力にまかせた生活をしていたので誰からも恐れられていたのですが、彼は段々と時分の立場や身分や職業が、どんなに人々から忌み嫌われるものかということを骨身にしみて感じるようになったのです。子供が成長してみんなから苛められるようになった。お金の力により子供が荒んでいく姿を目にして、人生の選択に迷いを感じるようになった。一度足を突っ込んだらどうにもならない。抜けることもできない。悶々として生活していたんです。イエスのお弟子に元税金取りだったマタイという人がいますが、彼がイエスに勧めて、ザアカイを含めエリコの人々を救うためにエリコに行くようにしたことでしょう。イエスはマタイの勧めを受け入れ、わざわざエリコの町を最後のチャンスをとらえてお回りになったわけです。

イエスは先ず盲人を訪ねます。先程のバルテマイです。彼は盲人ですから、こけつまろびつしながら喜色満面イエスの前に来たわけです。彼は何をおいても見えることだけを願った。彼はたちまち見えるようになった。これは肉体的なことですが、目とは心の目の意味もあります。目が見えなくても心の目が開いていれば見えるものがいっぱいあります。この男のように正しくイエスの名前を呼んだ人は滅多にいない。彼は肉の目が見えなくても、イエス様の噂を聞いた時、彼は俄然イエスに対する願いが熱く熱く盛り上がって来て、目が見えるようになると実に積極的な生き方をしたのです。見えた途端に、主よ、あなたの僕にして下さいと言ってイエス様に生涯を捧げたのです。だから彼は当時の時代に有名な伝道者になっています。バルテマイという名前がちゃんと残っています。私はこの人が大好きです。本当に素晴らしい人ですね。彼は盲人の時には本当に意気消沈していました。しかし、見えた途端にエンジン全開で、もの凄く活動的な人生を送った人と言われています。人生を諦めていた人でしたが、イエス様との出会いで品性・人格が全く変わってしまった。

ザアカイもそうです。イエス様の方が物見高いこのザアカイに対してね、今晩私はあなたの家に泊まるために来たんだよと言ったのです。みんなイエスを非難しました。こういうことがイエス様が十字架につけられる直接的な原因になっていったのです。しかし、イエス様は本当にザアカイを造り変えられました。お金一辺倒だったザアカイの人生観を大きく変え、不正な取り立てをしていたら4倍にして返します、私の財産の半分は貧しい人に施します、と言わせたのです。彼はそれから不幸だったでしょうか。ザアカイは本当に素晴らしい人生を送ったと言われています。それでもたまに淋しいことがあると、彼はあのイチジク桑の木の傍に来て、私を呼んでくれたイエス様のことを思いだし、涙を流して立ちあがったと言われています。

愛する皆さん、人生は変わることができるのです。私も随分いたらない人間でしたが造り変えられ、何時間でも一日でも心を込めて祈れるようになりました。自分の事だけでなく、人のことをいつでも考えられるようになってきました。神様は私を変えてくれたんです。良い所は残して、足りない所をちゃんと補ってくださいました。神様はその人の足りない所を補って、豊かに豊かにしてくださいます。キリストの形があなた方の心の中になるまでは、と聖書に記されています。人がキリストにあるならば、その人は新しく造られると聖書は言っています。見よ、古いものは過ぎ去った、全く新しくなるのです。この教会にも9年かかって本当に新しくされた方がおられます。2年や3年では直ぐには変わらないかも知れませんが、人がキリストにあるならば、確かに変わることができます。私はこの教会の中に本当に変わった人をいっぱい持っています。この教会の宝です。何十人もの方が、どんなに褒められても絶対に傲慢にならないしね、どんなに用いられても、どんなに良い仕事をしても、決して自慢されません。何百万円の献金でも匿名でされる方がいっぱいおられます。それを誇らない人がいっぱいおられます。なんて素晴らしいことでしょうか。人は変わることができます。今晩はお祈りして終わりにしましょう。

天のお父様、感謝をいたします。あなたの恵みによって、私たちは変わることができます。人がキリストにあるならば、その人は新しく造られた者になる。自分の努力や力ではどんなに変わろうと思っても、変わったと思って安心すると、また元に帰ります。変われば変わるほど、実は始末が悪いものに変わっていくことがどんなに多いことでしょうか。神様、どうか私たちを砕いてください。私たちを造り変えてください。私たちをあなたの子供にしてください。この記念の講演会によって、その入り口に入ることができる人々を興してください。残された集会を豊かに祝福してください。御子イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。