復刻版
『受難週のキリスト』

第二章 最後の晩餐

本書は絶版につき本サイトで復刻したものです。

植竹牧師の「それでもまだ言い足りない」 »

■ 第二章 最後の晩餐
<ヨハネによる福音書13章1~35節>

イエスの生涯は、はじめから十字架、十字架、十字架、と、十字架を目指して歩まれた生涯だったのでございます。

たとえば、荒野で試みをうけなさいましたが、サタンの誘惑はみんな、イエスを十字架の救い主でなく、パンの救い主、この世の救い主にしてしまおうという誘惑だったのです。

のちにペテロが、「私はもうじきエルサレムにゆき、十字架につけられて死ぬ」といわれたイエスのお言葉に驚き、「先生、そんな縁起の悪いことを、いわないで下さい」といっていさめたときも、イエスを十字架につけまいとする、サタンの代弁だったのです。だからイエスは、「サタンよ、退け。あなたは神のことを思わず、かえって人のことを思っている」といって、愛する弟子をサタンと呼んでまで、きびしくお叱りになったのです。

それと同じ誘惑が、今朝お話した、あのギリシャ人の来訪をとおしても、やってきたのです。それでイエスは、ご自分の生涯は十字架のためにあるということを、改めて認識され、このギリシャ人に対して、はっきりと拒絶の態度を示されたわけでございます。

イエスの生涯の大事なときに、三度神さまの声が天から聞こえた、ということが聖書に書いてあります。

第一番目はイエスが洗礼を受けられたときです。ヨハネから洗礼を受け、水からあがったときに、大きな声が天から響いてきました。

「これは私の愛する子である。汝らこれに聞け!」

これはメシヤとしての仕事開始のときにおける神様のご承認の宣言でした。

第二は変貌山上の出来事でした。それはイエスが十字架につくーケ月かニケ月前のことであったと思われます。三人の弟子を連れてヘルモン山の奥深くにのぼられましたが、そのとき驚いたことに、彼らの目の前でイエスの姿が変り、顔は日のように強く照り輝き、衣はまっ白に輝いたのです。弟子たちはびっくりしてひれ伏してしまいました。するとどうでしょう。モーセとエリヤが現われて、イエスの十字架の最後のことを語り合われたというのです。イエスが本来神の子であり、父のみもとで持っておられた栄光が、ご自身の十字架の死について語り合われたとき、輝きだしてしまわれたのでございましょう。

ペテロとヨハネとヤコブの三人は、もうびっくりしてしまって、そこに倒れてしまったのです。そのとき輝く雲の中から第二の声が響いたのです。

「これは私の心にかなう者である」と。

第三番目が今、この受難のとき、今朝のお話の聖書の箇所です。イエスが、「今こそ人の子が栄光を受けるときがきました」と祈られたときに、天から声が聞こえてきたのです。

<わたしはすでに栄光をあらわした。そしてさらにそれをあらわすであろう>(ヨハネ12:28~30)

さて、33節には、<イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである>と書いてあります。イエスは、ご自分が十字架の上で、あの恐ろしい死に方をすることを充分ご承知の上で、何遍も弟子達に予告されたのです。

36節には、<イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった>と記されています。これでイエスの伝道の生涯は終ります。あとは弟子達と一晩、最後の晩餐をされて、もう翌日は十字架についてしまわれるのです。

イエスの三年半の伝道の生涯の結論はなんであったかというと、37節の<このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった>という言葉がよく表しています。39節にも<信じることができなかった>といっています。要するに、民衆たちはイエスを信じることができなかったのです。人間的にいえば、イエスの伝道は失敗だったように思われます。

しかし、ごく少数の者たちがイエスに従ってきました。そこで13章を見て下さい。

<過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたこ とを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された>(ヨハネ13:1)とありますが、イエスは、ご自分の十字架のときがもうきたことを知って、世にいるご自分の者たち、すなわちご自身の弟子たちを愛して愛して、最後まで愛し通されたと書いてあるのです。昔の訳には″極みまでこれを愛された″となっております。時間的にいえば最後までだし、質的にいえば極限まで、イエスは弟子たちを愛されたというのです。

ペテロはつまずきました。トマスは疑いました。ユダは裏切りました。ビリポは意味がわかりませんでした。みんなおじ惑ったり、イエスを捨てて逃げ去ったり、右往左往してしまうのですが、そんな弟子たちのことを全部ご存知の上で、イエスは最後の最後まで、とことん弟子たちを愛しぬかれたのでございます。

ところがどうでしょう。

<夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを人れていたが>(ヨハネ13:2)と記されています。これはほかの福音書をみると、ユダがイエスを裏切ろうと決心したのは水曜日の夜だということがわかります。以来教会は、水曜日を悔改めの日として守るようになったといわれています。ユダは、もうこの晩餐のときまでに、銀三十枚でイエスを祭司長たちに売り渡す取引をすませていたのです。わずか銀三十枚でです。

ユダとイエスを対比してみて下さい。ユダはすでに裏切りをはじめており、イエスはそれをご存知です。知っていてユダは席につき、イエスはそのユダを極限までも愛されるのです。イエスは背かれれば背かれるほど、激しくユダを愛されるのです。

イエスは明日、十字架につく、ということを知っていらっしゃいますから、なんとしても弟子たちに最後のメッセージを語っておかなければならない。ご自身の愛といのちを注ぎだして語らなければならない。そういう思いでいっぱいでいらっしゃいます。

それで二つの実地訓練、実地教育をなさいました。一つは弟子の足を洗われたこと、もう一つは聖餐式の原形といわれる、食事をともになさることでありました。そののち、17章までの、実に素晴しいメッセージとお祈りが続くのでございます。今夜は時間がたりないので、メッセージとお祈りの部分は割愛いたしますが、ぜひ17章までのところを、祈りのうちにご自分で読んで頂きたいと思います。それこそ、死にのぞんでの切々たる思いが、あますところなく記されているのでございます。たぶん、夜中の十二時ごろまでの数時間の出来事であったと思います。そのわずか数時間の出来事に、ヨハネは多くの頁をさいているわけです。

そこでまず、洗足のことを学んでみましょう。

<イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上って、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた>(ヨハネ13:3~5)

大変なことになったのです。奴隷のする卑しい洗足の仕事です。だれも奴隷の仕事はしたくなかったので、イエスの足さえ洗おうとしなかったのです。それで、イエスが立ってそれをしはじめられたのです。

ルカによる福音書のほうには、<時間になったので、イエスは食卓につがれ、使徒たちも共に席についた>(22:14)<それから自分たちの中でだれがいちばん偉いかと言って、争論が彼らに間に起こった>と書いてあります。

イエスが十字架を前にして遺言を語ろうとしているのに、弟子たちの最大関心事は、晩餐の席次争いだったことがわかります。あとでみるとわかるのですが、イエスの左側にすわったのはユダです。だからイエスとユダだけの会話がでてきます。

当時のユダヤ入は、食事のとき、低い台にすわって足を投げ出し、左のヒジを食卓について食べたそうです。すると体がすこし斜めになる。それでヨハネはイエスの右側にすわり、ユダは左側にすわりました。そうすると、ヨハネはイエスの胸によりかかる形になり、イエスはユダによりかかるようになります。ヨハネはイエスのみ胸近くになり、ユダはイエスと個人的な話がしやすいことになります。それでもわかるように、イエスの左側にすわるのは、弟子の中でも一番偉い人ということになります。ユダはおそらく、意識的に一番よい席をとったのです。″誰が一番偉いのか ・・・″という論争が起きたのは、たぶんユダが最良の席をとってしまったことから、他の弟子達の不満が起ったものと思われます。

そこでイエスは、「あなたがたは何を話していたのか」といわれたのです。弟子たちはびっくりしました。

イエスは黙って上着を脱ぎ、前かけのように手ぬぐいを腰に巻き、水をいっぱいに入れたたらいを運んできて、弟子たちの足を洗いはじめられたのでございます。

一瞬弟子たちは息をのみ、顔を見合せてしまったことでしょう。「えらいことになってしまった。我々が論じあっていたことを聞かれてしまったのだろうか」

弟子たちはしーんとしてしまいました。

やがてイエスは、一番最初にユダの足を洗われたと思います。そこが上席ですから当然です。すでにイエスを裏切る決意をし、やがて祭司長のところへ走ってゆくその足を、イエスは今お洗いになるのです。

「血を流すのに速い」ユダの足よ。お前はまもなく私を売るために走るのか。それでも私はあなたを愛している。私はあなたの足を洗おう!と。

ユダヤ人の間では、足というのは、行為、行動、行いを意味しています。今日の文化国家の都市のように、アスファルトやコンクリートの道はありませんから、ユダヤ人の足はいつでもよごれていました。すこし歩いてもほこりだらけ、泥まみれになるのです。だから人の足を洗うとは、人の行いの、罪や不始末を洗うことになるのです。

自分の番がきたとき、ペテロはもう、たまらなくなりました。立ち上って、

「先生、あなたが私の足をお洗いになるのですか。とんでもない。おやめ下さい。むしろ、私がお洗いしなければなりませんのに、気がつかなくて申し訳ありません。どうぞおやめ下さい」。

イエスは彼に答えていわれました。

<わたしのしていることは、今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう>(ヨハネ13:7)

ペテロは今までいくども、大切なことがあるたびに失敗してきました。お見合いの日にかぎって紅茶をこぼしたりする娘さんのようにです。かわいそうですがこのときもそうでした。

イエスは<もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私となんの係わりもなくなる>(ヨハネ13:8)とおっしゃいました。

足を洗う、ということは、実は洗礼と同じ意味であって、私たちの罪を洗い流すのだ、とおっしゃるのです。だから、「あなたかそれを拒むというならば、残念だけれど、私とあなたは関係がなくなるよ、私があなたの罪を洗ってあげるのだ。私のゆるしと清めを受けなさい」といっておられるのです。

その洗足を拒むということは、「私は汚れておりません。十分清くなっています。」とか、「私は自分で洗うことができます」ということであり、救ってくださる神の恵みを拒むことになります。

さらにイエスでさえ、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。ヨハネも、 「とんでもない。私があなたから洗礼を受けるべきです」といって、イエスの受洗を思いとどめようとしました。しかしイエスはそれを押しとどめて、自ら一人の罪人として、洗礼をお受けになったのです。

あのバプテスマのヨハネが、どんなに偉大な予言者であったとしても、イエスは神の子です。比較にも問題にもなりません。それなのにイエスはヨハネから洗礼をお受けになったのです。

今ペテロが、イエスさまに足を洗っていただくよりも、私が洗わせていただきたい。気づかなくて申し訳ありません、どうか私の足を洗わないで下さい。といったとしても、それはイエスヘの愛から出たものであって、責められるべきではないでしょう。むしろ奉仕の精神は賞讃さるべきものでございます。

しかし、今は、奉仕すべきときでなく、恵みを受けるべきときであります。

ペテロの最大の長所であるとともに欠点は、彼の自負心でありました。「決して私の足を洗わないで下さい」といったペテロは、次には「ほかの者が全部つまずいても、私は決してあなたを裏切りません」というのです。

皆さん。ペテロのように、「私だけは大丈夫です」という、その自負心が、一番砕かれなければならないのです。いっていることもすることも、みんな立派なんてすが、それはみんな自負心からきていました。だから主は、ペテロの自我、自負心、自尊心が砕かれるために、大きな失敗をすることを許されたのです。ついには一番大事なところで、イエスを否定するような大失敗を演じました。ペテロほどの自我の強い人は、これほどの大失敗を演じて、大恥をかく必要があったのです。ペテロは砕かれることが必要だったのです。

皆さん。自信のある人はいつか砕かれる必要があるのですよ。使徒パウロも、自ら立てりと思う者は、倒れることのないように気をつけなさい、といっています。リーダーとしての自信、自分は清い、真面目だ、という目負心、自分はやった、という思いのある人は特に気をつけて下さい。

ペテロもそうでした。彼は己を誇りとするところがありました。だからペテロの言葉を読むと、すぐにわかります。その中には必ず「私は」「私が」「私を」があります。これは「我」です。私だけはつまずかない、私だけは裏切らないと、いつも″私″が強調されるのです。

私たちがイエス・キリストを愛するということは、私たちがイエス・キリストのために何かをすることだけではありません。イエス・キリストの愛を素直に受け入れることからはじまるのです。

「主よ、有難うございます。どうか私の汚れを洗い流して下さい」ということからはじまるのです。

ペテロは足を洗ってもらわなければイエスと関係ない、といわれてびっくりしてしまいました。

「主よ、あなたと関係がなくなるなんてとんでもない。恐ろしいことです。そんなことは考えたこともありません。気がつきませんでした。ゆるしてください。それならもっと深くあなたと関係づけられるために、頭から足まで、全部洗ってください」

なんともおっちょこちょいな男です。うろたえた様子がよくわかりますね。

イエスはすぐに、「そんな必要はありません。あなたがたはすでに清い、足だけがよごれているのだ」とおっしゃいました。ユダヤ入は祝宴や過越の食事の前にはすでに沐浴して出かけてゆくのです。ただ、そこまでゆくのに足だけがよごれるのです。

皆さん。私たちは誰でも、

「私はもう清い。けがれたところは一つもない」といわないようにしましょう。むしろ、 「私は恵みによって清くされた。それでもなお、私の言行にけがれたところがあるかもしれません。どうぞ気づかぬところがあったらゆるして下さい」というべきです。

ヨハネは<「あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで「みんながきれいなのではない」と言われたのである>(ヨハネ13:10~11)と註釈を加えています。いうまでもなく、ユダのことを指しておっしゃったのでしょう。

さてイエスは、彼らの足を洗い終り、上着をつけると、再び席につかれ、彼らにいわれました。

<わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ>(ヨハネ13:12~15)

どうだ、わかったか!と、手本をしめしての教訓は、弟子たちの心にびしっ、とはいったと思いますね。誰が一番偉いかなんていう論争をする、思いあがった弟子遠の心に、イエスは深く釘を剌されたのでした。実際、清められてからの弟子たちは、もう誰が一番偉いか、なんていうことは全然問題にしなくなりました。

私の教会でも、今、こういうことが問題になっていないことを感謝します。役員さんはみんな自分のことを用務員だといっています。教会では、へりくだる人、奉仕する人が偉い人です。教会の中ではそのくらいのことは誰でも知っています。聖書を読めば誰でもわかります。「わたしのしたことがわかるか」というのは、痛い言葉ですね。

「今あなたがたは見ただろう。今はわからなくても、そのうちもっとよくわかるときがきます。そのときにはもっと強くわたしのしたことがわかるようになるぞ!」とおっしゃっておられるのです。くりかえして「頭となろうとする者は僕となれ」といわれます。そういう実地訓練がこの洗足の出来事でした。まさに、

「文句あっかーっ!」というところですね。

洗足のことを終る前に、ユダのことに少しふれる必要があります。

ユダという人はでもね、イエスの集団の中で一番すぐれた人ではなかったかと思います。ペテロどころではなかったと思います。彼の緻密な頭脳、計画力、実行力、能力才能は抜群でした。イエスの隣りにすわろうとしたのも当然だったのです。事実ほかの弟子たちもユダには一目おいていました。ユダはイエス集団の会計係、財布を預っていたのです。いわば大蔵大臣です。どこの世界だって、最後に一番強いのは財布を握っている奴です。最後に裏切ったからどこをみても悪く書かれていますが、このときまで、弟子たちの中にはイエスとユダとの信頼関係を疑っていた者はいなかったと思います。だから、最後にイエスが、あなたのすべきことを早くせよ、といって、ユダの出て行くのを見送ったときも、まさか裏切りのために出て行くとは気づきもせず、祭りの準備のためか、施しのためにでていったとしか思わなかったと記されています。(ヨハネ13:27~29)

<ユダは一きれの食物をうけると、すぐに出て行った。時は夜であった>(13:30)と書かれています。

時は夜であった、とは、なんという象徴的な言葉でしょう。闇の支配者であるサタンの手先となって、夜の闇に出て行くユダの後ろ姿を、あるいは敏感なヨハネは、事態の深刻さを感づいていたのかも知れません。少なくともイエスは、ユダを満座の中で恥をかゝせるためでなく、二人にしかわからない言葉でおっしゃったことがわかります。

「この中に裏切る者がいる」とおっしゃったときも、ほかの弟子たちは不安に駆られ、落着きを失い「まさか、私ではないでしょうね」と口々にいいだしましたが、肝心のユダは傲然と構えて、平気でいました。トマスなどは、自信がないものですから「先生、それは私ですか」と聞いたりしています。

ペテロはペテロで、いつもそんなことで叱られつけており、いまも失敗したものですから、自分で聞き出す勇気さえなく、主のみそばにいるヨハネに合図を送り、誰のことか聞いてくれ、と頼んだほどです。へたに自分でイエスに聞いて「お前だ!」なんていわれたら、収集がつかなくなると思ったんでしょうね。

私たちだって、もし「この中に私を裏切る者が一人いる」なんて主にいわれたら、自信のもてる人は一人もいないだろうと思います。多くのクリスチャンは、潜在意識の中で、迫害がはじまったら、私も主を裏切るかも知れない、という恐れをもっています。

ペテロの合図をうけたヨハネは、そのままイエスの胸によりかかって「主よ、だれのことですか」と尋ねたと記されています。イエスの胸によりかゝったヨハネ!なんという平安、なんという感謝。ユダが筆頭の席にすわったのなら、最後の席であったかもしれないヨハネの席は、イエスのみ胸の近くであったのです。(ヨハネ13:25)

マタイは、このときユダが「先生、まさか私ではないでしょう」といったと記しています。(マタイ26:25)

どんな気持でいったのでしょう。

イエスは、ヨハネの質問に答えられました。

<「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである。」そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった>(ヨハネ13:26~27)

主人が一きれの食物を浸して、わざわざ与えるというのは、特別な客に対してだけする最上の好意のしるしです。普通はしないことです。イエスはユダにそれをしました。

なのに、そのとき、サタンが決定的にユダにはいったのです。最初のところでは、イエスを売ろうとする思いがはいっただけでしたがこゝでは決定的に、サタン自身がはいったのです。ユダという人は、ほんとうに悲しい人であったと思います。イエスの絶大な行為にも愛情にも、ついに心を閉じてしまったのです。

もう時間がなくなりました。最後に″最後の晩餐″の、もう一つの大きな意味について お話ししたいと存じます。

それはいうまでもなく″聖餐″の秘義についてであります。

使徒パウロは、コリント人への第一の手紙11章23節以下にいいました。

<わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、わたされる夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。」食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい。」 だからあなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」(Ⅰコリント11:23~29)

これはマタイ・マルコ・ルカの各福音書に記されている″最後の晩餐″の情景をよく表したパウロの解説です。教会において行なわれる聖餐式にも、制定語としてとりあげられているので、クリスチャンである皆さんには、なじみの深い言葉であると思います。

しかし、不思議なことに、ヨハネによる福音書には、この聖餐式のことは詳しくのせられていません。ユダが出ていってからは一・二のやりとりののち、あの有名な訣別の説教と、最後の祈りへと移ってゆくのでございます。

しかしヨハネは、他の福音書で最後の晩餐で弟子に語られたのと同じ言葉を、イエスはパンの奇跡のあとで、有名な″いのちのパン″の説教として、群衆に語られたことをのべています。(ヨハネ6章)

<わたしがいのちのパンである>(35)

<わたしはいのちのパンである>(48)

<イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく、人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」>(53~56)

<弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これはひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。>(60)

<それ以来、多くの弟子たちは去っていって、イエスと行動を共にしなかった>(66)多くの弟子たちは、イエスについてつぶやき(41)論争し(52)つまずき(61)去っていった(66)のです。

彼らがつまずいたのは当然です。イエスの説教は、人肉を食い、人の血を飲む、というのです。ユダヤの律法では、血は飲んではいけなかったのです。しかし、なぜイエスはご自身の肉を食べ、血を飲めといわれるのでしょうか。

一つは新しい契約のため、二つは、新しい命を与えるためでした。

古い契約には、羊の血が必要でした。だから毎日イスラエルの神殿では羊の血が流され、過越の祭りには、何千何万、何十万の羊が殺され、小川の水が黒くなるほど、血が流されたのでした。

しかし、羊は人間より劣ったものです。何万頭の羊が殺されようと、一人の人間の身代りにもなりません。しかし今、神の子の血が流されようとしています。神の子イエスの血は、全人類の身代りに匹敵するのです。イエスの血こそ、全人類の罪のために、その代償として流されるものなのです。

神は、イエスの流された血によって、信じる者は誰でも救うという、新しい契約を人類と結んでくださるのです。

第二は、新しい命を与えるためでした。

赤ちゃんを見て下さい。あの母親の、白いお乳を飲むだけで、立派にすくすくと育つのです。私は生物学者でありませんので、よく知りませんが、母親の乳は母親の血液ではないでしょうか。人は血を飲み、肉を食べて育つのです。食べたものが、血となり肉となるのです。 ヨハネによる福音書15章には、<わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である>といっておられますが、枝はぶどうの樹液で養われるのです。食べる、飲むのは同化作用です。飲むこと食べることによって、食物は体の栄養となり、同化してゆきます。キリストの血を飲み、肉を食べるとは、キリストの命にあづかることでもあり、キリストの命に同化することでもあります。

本棚に、まだ読んでいない本があるとしましょう。どんなに素晴しい内容のある本でも読まずに棚に飾るだけではなんの力もありません。しかし、あるときそれを引き出して、読んでみました。その本のもつ素晴しい内容が、力となって読む人の心に伝わります。かつては外側にあって、なんの力もなかったものが、今では力となり、命となり、養いとなって、読む人を変えてしまうのです。その場合、本はその人の血となり、肉となり、活力となったといえましょう。

イエスは今、最後の晩餐において、弟子たちにご自身の十字架の死とその力を、目にみえる形において教えるため、パンと杯とをしめして言われたのです。

愛する皆さん。どうぞ知って下さい。主イエスは、その最後の夜、ご自身の弟子たちを愛し、きわみまでこれを愛して、互に愛し仕え合うべきこと、ご自身の流し給う血によって、全く新しい契約、すなわち新約の恵みが与えられること、それによって信じる者、受け入れる者に、永遠の命が与えられることを、このように具体的な方法をもって示されました。これが最後の晩餐の出来事であったのでございます。